067_常に終わっていて、始まっている、
あちら側の生命体には寿命がある、ただしそれは時間に依存しない、他の資源が枯渇した時に消えるのであるが、これは実のところ、常に絶えず行われている変化であり、日常である。
そのように観測できると推測されるだけで、実際には見ることはできない、知ることはできないわけではある、こちら側から調べることができないからであり、もし計測できても意味を識ることができないからであり、ただ、予想する、推測することはできるのでこのような表現になる。
ようはこちら次第であり、向こうに都合を合わせてもらっての観測になる、見せようと思わなければ見られない、と思わせることによって見ることが可能になる、つまりはかなりの思い込みやら妄想がなければ、現実化しないわけであり、観測する側の意志という情報が、パラメタがなければ意味をなさないのである。
オカルトのようではある、事実中身がよくわからないのであるので、そのものズバリではある、再現性はある程度はあるけれども、感覚が情報が、錯綜する必要がある、多様なそれを浴びせかけるようにして、どうにかして反射を捉える必要があるので、同じものを取り出すことは不可能に近い、もしくは差異を捉えることが難しいので、同値であるという錯覚を呼び寄せる事になる、が、それはそれで問題がないとも言える。
情報のズレをエネルギーにして生きるのであるから、同じであるという誤認もまたズレでありあちら側の有利に働くのでそのままになっているという見方ができる、ずれが生じるのであるならば、そのまましょうじつつけさせるというわけである、慣性の法則に通ずるものである。
であるならば、そうでない場合にはそれを阻害しようと働くわけであり、正確に捉えようと情報を伝えようとする場合には、なんらかの抵抗があると、捉えることもできる、そうなのである、情報を誤解なくそのまま伝えている、それに近づいているという時には、かなりの抵抗を感じることになり、それを計ることができるのであるならば、正確に伝えているかどうかの指針になり得る、わけである。
どうにかして、そのエネルギーを計測できないかという発想が生まれるわけではあるけれども、客観的に、どのような要素で変質するものがあるのかというものを見つける必要があり、物質の変化を計測するような、水銀が圧力で変化するような、温度計のような、そのようなものが作れるかどうかという話にもつながってくるわけである。
情報そのものの量、在ることそのものを計る、目に見える、計測できる、そのようなシステムが必要になるのであり、このままいけば造られる事になる。
もしくは既に在るけれども、それがそうとは気がついていない恐れがある。




