045_時をかけることはできる。
タイムトラベルは可能である、ただ受け入れ体制が整っていなければいけない。
あちら側では時間は操作できるパラメタの一つでしかないとするならば、未来も過去も自由自在に行き来できることになる。
こちら側の認識ができないだけであり、常にその軸での移動は行われている、むしろ往復している。
こちら側でもタイムトラベルは可能になるかというと、できる。
しかしそれを行うには、その時間軸でタイムトラベルが可能なように工作が必要になる。
いずれ開発される時間操作はその操作ができる時間でなければ、それを対象に移動することができないからである。
それは移動するには移動先と移動もととその途中の準備が整っていなければ不可能であるからであり、つまりは、時間を操作できない時代にはいくことができないのである。
つまりは、タイムパラドクスが起こらないような細工、工夫、そのような時空間構造が構築できていなければ、そこに向かえないということであり、まずは、その技術を開発しなければならないからである。
故に、現代に未来人が来ることはない、それはいまだにタイムトラベルの技術が確立していないからである。
という連想というか直感を得た。
あちら側ではむしろ過去から未来へと時間が流れていることが不思議に思われているのではなかろうか、こちら側でいうならば、右から左にしか進めないようなものであるという、不自由さ、不自然さのようなものである。
無意識に、左右に揺れるように、過去未来に揺れて存在しているような生き物なのである、であるならば、その技術やら特性を紐解けば、こちら側にも応用が効くのではなかろうかという発想になる。
成り立ちが、構造が、生き方が、違いすぎるのでそのままこちら側に持っては来れないが、それを模倣することはできるのではなかろうかという発想である。
直接的な操作はこれは無理である、不可能である、が、間接的には可能なのではなかろうかという発想を得ることは、これは可能なのではなかろうか、それが考えられた、想像の範囲にあるということは、いずれどこかで実現するということである。
それどころか、あちら側に渡ることも可能になるのではなかろうか、いやそれは、行くというよりは、あちらになるということにならないであろうか。
情報のズレをエネルギーとする生命体に成り代わることが、できるのではないであろうか、という発想が、精神を安定させる、希望を持つことにつながるという、発想が生まれることは、止めることはできないのではないのである。
なりたいかというとどうなのであろうか?
私はなりたい。




