046_あきらめることをあきらめる。
止めることはできない、あきらめることもあきらめることをあきらめることも、どうにもならない、どうにもならないからあきらめるということを、あきらめることもまたそうであり、つまるところ不自由でしかないからこその自由である、とも言える。
見方次第、見立てによるのであり、どうでも良いのではないかというならばそれはどうでも良いことであり、こだわるのであるなら、それはこだわるものである、そのくらいのことであり、それだけのことであり、それほどのことであり、それならばのことである。
どう思い描いても、どう意識しても、どのような思考になってもそれはどうしようもないのであり、否定できる物ではなく、否定しても良い物であり、評価そのものも、どうしようもない物である。
そのどうしようなさを認めないということもまたどうしようもないことであり、この辺りは、どれも自由にはならず、意識してできる物ではなく、自我が存在しないことの証明でもある。
認めないわけではない、自我がないということを認めさせたいわけではなく、そのような考えが浮かぶことが否定できない、自然に浮かぶ物である、ということであり、ただそれはどうしようもなく、止めることができない物であるということであり、そしてまた、止めることも止めることができない物であるということである。
運でしかない、どのような情報を得ているのか、入力されているのかの違いでしかなく、それに左右されているしかないということであり、自我というものはその程度のものでしかない。
もちろんそれを認めないという思考を得ることもまた止められるものではなく、自分ではどうしようもなく、そう思うことになる。
どちらでも同じ結果であるのである、自我があるかどうかという証明は意味がない、どちらを語ろうとしても、あることの証明ができないのである。よく言われる悪魔の証明であるわけであり、そしてこの場合は、正しい。
ないのである、しかしそれは関係ないのである。
こちら側にも関係ないのであるし、あちら側でももっと関係ないのである。
主体として考えるのは情報なのである、あるかないか、それだけの話なのである、その濃淡だけが、必要な物であり、大事な物であり、その差がエネルギーになっているのであり、それを得る筋道を保つためだけに、あちら側が行動することになる、そういう見立てをすることが、真実に近づく一歩になる。
別に真実から遠ざかっても良いのではある。
そのようなこともまた関係ないのである。




