042_空回りは無駄にはならず。
何が無駄であるかというと何も無駄はないわけであり、そこに在るだけで無いこととのずれが生じるわけであり、エネルギーにはなる。
その内容には左右されないので在るならば、実のところあちら側の生き物からの干渉は最低限であるわけである。
あちら側はただ、均一になること差がなくなることに抵抗するような力をこちら側に働きかけているのである、慣性の法則に近い、ずれがあるようにそのままであるように力を生じさせているのである。
故に、ずれは無くならない。どのように正確に伝えようとしてもそれは叶わない、ここはもう諦めて受け入れるしかない環境条件ではある。
別に諦める必要もないのではあるが、いや諦めるとかそういう感情が自由になるものでもないと、言った方が正確に近い。
その思いは必ず自由にはならない、運が左右する、入力される情報の順番、タイミングによって、変質するものであり、自我というものが主体的に判断できるようなものではなく、ただ、その自我が無いことを受け入れられるかどうかも、また自由にはならず、この辺りは、循環している思考になるわけであり。
決定権がどこにも無いわけである、誰が決めるのか、というと自分が存在しない中、では他人かと言われると、他人にも自分が存在しない、独立した知性が、あり得ない、ということであるので、強いていうならば情報そのものが主体となるわけであり、それは、全体のことである。
ただ時間と空間の隔たりがあるので、それはある種の独自性を発揮する、色がある濃淡がある、ように捉えるとわかりやすい。
しかし、そのようなものにとらわれていない、情報のズレをエネルギーにする生き物にとっては関係ないわけであり、あくまでも関わってくるのは、こちら側の生き物であるわけである。
何を考えるのか、どこで考えるのか、どうしたいという錯覚と付き合うのか、それだけの問題ではある、最後には何も無くなってしまうのであるから、その途中はどうでも良いのではなかろうかという思念も、その発生を止めることはできず、逆にそれはよろしくないのでは、過程こそが大事なのでは貴重なのでは、楽しめるのではという発想もまた、誰にも止めることはできないのである。
自分自身がないのであるから、自分自身を持って止めることはできないのである。
簡単ではあるが、絶望もしやすくはある捉え方ではある。
その絶望も自由にはできないものであるところに、救いがある、とするものも多いのではなかろうか?




