039_干渉はされている、鑑賞か?
楽しんでいるという感情があるのかどうかというと、あるとみなすこともできるという程度である。
ようはこちら側がどう見ているのか定義しているのかということであり、その定義そのものがあちら側の存在を定義づけているとも言える。
観察することの結果として現象が固定されているように錯覚するようなものであり、本質的にはどちらでも良く、因果関係が逆転しているのではという問いに対しては、そもそも、互いに循環しあっているのであるから、どちらが先ということも無いと答えることができる。
本当にこちら側を意識してあちら側が行動していないのかという断言はできず、むしろかなり意識しているという言い方もできる。
なぜならば、意識の定義をこち側のそれに合わせてしまうと同時にあちら側でも成り立ってしまうからである。
深淵を覗くものはまた深淵に覗かれることになるという言葉のままの話である、そう浅いものでもないであろうが。
どうにでもなるしどうにもならないという言葉は前にも述べたわけではあり、コントロールしようということは不可能であり同時に意味がなく、なぜならば、こちら側でも本当に制御下に置かれている事象が皆無、もしくは絶無であるからである。
錯覚に過ぎないのである、全能感が見せる幻のようなものであり、そもそものところ完全な客観視があり得ない、現状がそれを呼び寄せていると言える。
色即是空空即是色という言葉が示すように、それはそのままであるのである。
夢幻しかなくそれしか無いのであるならばそれは実在現在と変わらないものである、全てがあやふやであるならば、逆に全てが確かであるということでもある。
簡単に全てという言葉は使えないのではという話でもある。
ありとあらゆる可能性があるということは、そもそも何も無いことと同じであるという認識が必要なのである、深く思考するということはそうであるという、浅い考えが、大体の脳みそを支配しているのである。
浅深の違いというのはその程度のものであり、本質ではなく、あくまでも断絶している、伝わらない、そこに生まれる何かのエネルギーというものが、此度注目に値する何かであり、それを食べる生命体を中心に考えることなのである。
そういう見立てであり、別の見方ではこれも浅いという類のものである。
いわゆる趣味の話ということである。




