038_最初で最後でいつもの接触。
ファーストもラストも、その中間もないわけである、接触は存在と同時に行われていて、そして別れも同時に行われている。
時間の概念、使い方、影響のあり方がそもそもこちら側とは違うわけではあり、ただこちらが間接的にセンサで拾う場合に、それが影響している、見せかけであるということである。
情報のズレをエネルギーにしているのであるが、そもそも意思疎通やら言語やら、そのようなものだけの話ではなく、ただそこに、あるかないか、というだけのズレでも十分のエネルギーとなるのである。
活動するにはその程度で良いわけであり、ただ、高いポテンシャルを得るために、複雑な情報のズレを必要とする好む、ように見受けられる傾向があるというだけであり、なければないで別に困ることもないのである。
ただ、生物としての欲求、特質として増えるのであるならば、増え続けたいという、惰性のようなものが存在するが故に、ズレを適度に調節するような振る舞いを見せるのである。
これは見方が逆であり、適度な情報のズレがあるからこそ活発に動くのであり、生き残るのであり、そうでなければそもそも存在があやふやになってしまうというだけの話であり、結果と過程が逆転しているのではということでもある。
環境がそうであるから生き残っているのであり、生き残るために環境を操作したのではないということでもあるのであるが、もしくは偶然そうなっただけに過ぎず、必然性はなかったとも言える。
これはこちら側でも同じような思考がされている。我々は進化して生き残ったのではなく、生き残った結果、世代を重ねた変質していった結果、たまたま、運よく残っただけである。
淘汰されたのではなく、適応したのでもなく、結果的にそうなっただけであり、何者かの意志が働いているわけではない。
逆に意志のような、管理者のような、行先を導くようなものは、あるように見える、超越するモノが存在するように見える。これもまた間違いではない。
そもそも意志は存在しないのであるのであれば、何をそう見立てるのか、解釈やら解析やら、観察する側の問題であるのである。
無いといえば無いが、有るといえば在る。
そういう次元の問題である。
この感覚やら思考やら発想やら直感やらひらめきは、得ようと意識しても達成できないものである、自由にならない領域であり、そしてそれは全てにおいて言えるものでもある。
儘ならぬ。




