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018_環境のせいにして良い。

 自分は悪くない社会が全部悪いんだ、は正しい。


 けれども大体は認められない。自己責任という、意味合いの言葉がそこに入ってくる。がしかし、まあ、これもまやかしではある。


 選択の機会はあったであろうという意見は、それを選ぶための情報がなかった、という反論で消え、それを手に入れることを怠ったという意見には、そもそもその最初の発想を得る段階が環境になかったということになると、封殺されてしまう。


 知っていたはずであるという意見には、それが響かなかった影響を与えなかった、そのような環境であったという反論が生まれるわけであり。

 

 同じような環境であったものはそうはしなかったと言われたならば、同じではなかったのであろうと言えるわけである。


 それが正しくなかったといことが判明したのは、その情報を入れることができたのはことが全て終わった後であり、過去には帰れないのであるから、その時点ではどうしようもなかったことには変わりはない、のである。


 なので、正確には罪に問われるのではなくて、やったことに対して、周囲が納得する罰を与えることが主眼になるわけであるが、まあ、大体は本質的に歪んでいるわけであり、誤魔化しであり、取り繕いではある。


 失敗はし続けているのである、そしてそれはどうしようもなく正しいのである、なぜならば、必ず情報が歪むからである、そのまま伝わらないからである、思うようにはならず、制御もできず、なるようにしかならない、確率が大きく、上手にできたという感想は、ほぼすべて錯覚に過ぎないからである。


 どうしようもないけれどもどうにかしなければならないという環境であるがゆえにどうにかなっているだけであり、本質的にはどうしようもないわけで、そうであるがゆえに、自我が自意識があるというスタンスに立ち続けなければ不具合が生じてしまうということではある。


 それが全てまやかしで誤魔化しであるという認識に立つことができたならば、かなり効率的に行動することが可能にはなる、もしくは逆に刹那的になりすぎる、かもしれず、そうなる確率ですら、どうにもならないものであり、であるがゆえに、結構な自由を感じるのであるわけである。


 ままならないから自由なのである。

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