019_大いなる存在がいる方が楽は楽。
コミニュケーションの齟齬やら誤解やらをエネルギーにして生きている存在があることを仮定すると生きることがかなり楽になる、これは、超常の存在によって責任を棚上げするやり口に似ている。
どうにもならないことがある、それはどうにもならない存在が影響を与えているからであるという、諦めが最初にあれば、何が起こっても仕方がないとなり、現実的な手段を講じる流れになりやすい。
悲観的に物事を捉えるとこに似ているが、ある意味究極の楽観論でもあるといえる、何が起こるかわからないということは、奇跡めいた環境が訪れる可能性があるという希望を失うことがないからである。
次の瞬間に何が起こっているのかが分からないということは単純に希望にもつながるということであり、どう伝えても誤解されるということは、良い方にとってもらえる、事態がドミノ倒し的に好転する可能性が残されているということでもある。
計算通りにいかないことがとてつもなく楽しいということでもあるが、ある種の新調で計画的な性格にはこれはまあ合わない思考ではある。
誤解失敗誤読すれ違い勘違い、その他諸々の対話における失敗の可能性を加味して必ずどちらかにずれる、ということを意識して、行動する必要があり、なんならば、ずれる方向をコントロールして、情報を扱うことも可能ではある、もちろん、思い通りにはならないけれども、トータルとして振れ幅を収束させることは可能である、かもしれない、そこに希望が持てることが、幸せに通じるのではなかろうかなと思うわけである。
結果が大事ではない過程こそが主題であるのであるという意見もある、どうやるのかが、何を使うのか、を、中心に据えることが大事である場合もあるのである、というよりも、情報は結果ではなくその伝わる途中が、大切であり、エネルギーになるという、生命がいるわけである。
極論、それはなんでも良いのである、あるかないか、それが判別するならば、十分なエネルギーになり、思考やら思想やら、言葉やら、言語やらそういう、複雑に見えるものでなくとも良いのである、何もなくとも良いのである、そのうちに現れる、時間に影響される何かで良いのである。
なんでも良いのであるよ、それにとっては、人の思考も、光の瞬きも、等価であるわけであるので。
そういうものを、頭上に掲げておくならば、まあ、何があってもどうにでもなり、どうにもならないから、諦めがつき、希望が持てるのである。




