第9話
キリアンは、至って真面目な顔をしていた。
その顔で急に惚れたなどと言われたら、こちらはサンドイッチを置くしかない。
「お会いしたばかりですよね?」
「ああ」
「私、ポップコーンを差し上げて、殿下の悪口を言ったくらいですけど」
「楽しそうだった」
私は眉を寄せた。
「……誰の不幸でも楽しく眺めているわけではありませんよ。あの人たちには、私の話を聞いてもらえなかったので」
「分かっている」
即答されて、次の言葉が止まる。
「あの令嬢が剣を向けられた時、お前は立ち上がりかけた。上映している間も、彼女の顔を何度も確かめていた」
気づかれていたのか。
私は膝の上で指を組んだ。
「言い返す時は容赦がない。だが、誰にでもそうするわけじゃない。お前と話すのは、面白かった」
「面白いというのと、惚れるというのは……」
「別か?」
こちらへ向けられた視線が、まっすぐすぎた。
顔は好みだ。声も好きだ。隣で笑っている時、楽しかった。それは否定できない。
でも、だから即座に頷けるほど、私は器用ではない。
「……陛下のことを、私はほとんど知りません」
「なら、知ってくれ」
キリアンが、少しだけ姿勢を正した。
「次の大評議会で、先帝の遺臣を名乗る公爵の不正と、俺への暗殺計画を審理することになっているんだが」
「待ってください。今、何のお話に移りました?」
「誘おうと思った。傍聴席を用意できる」
私は、しばらく彼を見つめた。
「……それは、デートのお誘いですか?」
「そのつもりだった」
「行き先が血生臭いです!」
声が大きくなり、廊下の護衛がちらりとこちらを見た。
キリアンは虚を突かれた顔をした後、額を押さえた。
「ああ……確かに」
「気づいていただけましたか」
「お前が興味を持つかと」
「持ちますけど!」
今度は彼が吹き出した。
違う。そこを笑われたいわけではない。
「ちゃんと安全なんですよね?」
「一派はすでに拘束している。署名入りの密書と、金を受け取った者の証言も押さえた。毒物に関する調べが一部残っているが、それも技官が進めている」
言い終えたキリアンが、私の顔を見て口を閉じた。
「……また仕事の説明になったな」
「なりましたね」
私は笑ってしまった。
皇帝なら女の人を口説くのもお手の物なのだろうと、勝手に思っていたのだ。この人はどうやら、相手を誘う場所の基準から考え直す必要がある。
「普通にお茶とか、劇場とか。そういうのがいいです」
「分かった。劇場だな」
「今、予約まで決めないでくださいよ?」
伸びかけた彼の手が止まった。
廊下の護衛を呼ぶつもりだったらしい。
「分かった」
同じ返事なのに、今度は少しだけ気まずそうだった。
私は口元を押さえた。
よくない。急に、この人をからかいたくなってきた。
「陛下、何でもすぐ手配できるから、話が早すぎるんです」
「待つのは得意ではない」
「でしたら、練習してください。私は、まだ卒業したばかりです」
「……そうだな」
その返事は、思ったより低かった。
「しばらく王都に滞在する。帝国の賠償協議もある。その間、会いに行ってもいいか」
私は膝の上の手を見た。
さっき触れた時の温かさを、まだ覚えている。
「先に、ご連絡をください。父が驚きますので」
「では、返事を待つ」
ちゃんとできるではないか。
そう思って顔を上げたら、彼が嬉しそうに笑っていて、私はまた言葉をなくした。
「よかった」
たったそれだけの声が、妙に耳に残った。
好かれているのだ。皇帝の気まぐれかもしれない、なんて言い訳を挟む前に、それが分かってしまった。
私は焼き菓子へ手を伸ばした。
指先が少し落ち着かない。
「陛下は、甘いものもお好きなんですか?」
「遠征先では、手に入ると嬉しかったな。今は、執務の合間に食べる」
「じゃあ、ポップコーンを独占されないように気をつけます」
「最後の塊は、お前のものだろう」
覚えている。
どうでもいいはずの話まで。
焼き菓子を半分に割って、皿へ戻した。
「これは、半分どうぞ」
キリアンは一瞬だけ私の手を見た後、差し出された方を取った。
* * *
公爵家の馬車で帰る支度をしていたところへ、王宮の使いが来た。
拘束されたファビアンが、私との面会を求めているという。
『シビルなら助けてくれるはずだと、繰り返しておりまして』
私は外套の紐を結ぶ手を止めた。
キリアンが横に立つ。さっきまでの笑みは消えていた。
「行く必要はない。調べは、お前が会わなくても進む」
コンスタンツェ様も頷いた。
「今夜は帰りましょう。ご両親が待っているわ」
二人に言われて、急に眠気が押し寄せてきた。
そうだ。私は帰っていいのだ。
あの人が呼んでいるからといって、走っていく必要は、もうない。
「今日は会いません」
使いへそう伝えると、思っていたより簡単に承知された。
「ただ、後日、私の訴えについて聞き取りがあると伺っています。その時までに、会うかどうかは考えます」
キリアンがこちらを見た。
止めるでも促すでもなく、私の返事を待ってくれた目だった。
馬車へ乗り込む直前、私は彼を振り返った。
「今夜は、ありがとうございました。……また、お茶でも」
「連絡してから、だな」
「はい。それでお願いします」
扉が閉まると、コンスタンツェ様が私の肩へ寄ってきた。
「お茶ですって?」
「前を向いてください!」
車窓の向こうで、キリアンがまだ立っていた。
小さく手を振ったら、すぐに振り返してくれた。
馬車が角を曲がるまで、私は窓から顔を離せなかった。




