第8話
皇帝陛下を協議の控室へ見送ってから、私は向かいの休憩室へ入った。
扉を閉め、背中を預ける。
「……心臓がもたない」
赤い痣ができるほど財布を投げつけられた相手には、あれだけ言い返せたのに。
紙袋を持ってもらっただけで、手の置き場が分からなくなるとは。
ソファへ腰を下ろすと、足の先がじんじんした。
靴を少し浮かせているうちに、扉が叩かれる。
「シビル、入っていいかしら」
「コンスタンツェ様!」
私が立ち上がると、彼女は扉を閉めたその場で、長いため息をついた。
扇子を椅子へ放り、胸元へ手を当てる。
「終わったわ。……本当に、終わった」
さっきまでの完璧な笑顔とは違った。
私が駆け寄ると、彼女はためらわずに両腕を広げてくれた。
「ありがとうございました」
「私の台詞よ。最後まで映してくれて、ありがとう」
抱きしめられて、背中をひとつ撫でられる。
群青色の肩に額を寄せたまま、私は頷いた。
「殿下が剣を抜いた時、怖かったです」
「ええ。衛兵が入ると分かっていても、足が動かなかったわ」
「堂々として見えましたよ」
「夜会服の裾が広くて助かったわね」
顔を見合わせ、同時に笑った。
ソファに並んで座ると、彼女は自分から水差しを取り、私の分も注いでくれた。
「ワインじゃないんですか?」
「今飲んだら、私、ここで寝るわ」
「それは困ります。聞きたいことが山ほどあるので」
私は身を乗り出した。
「隣の席! 皇帝陛下だなんて聞いてません!」
コンスタンツェ様が、申し訳なさそうに眉を下げた。
「私が知らされたのは、今日の開場直前なの。来訪を伏せるよう申しつけられて、伝言を出す間もなかったわ」
「ひと言! お菓子を分ける前にひと言ほしかった!」
「そこなの?」
「だって、素手で! 袋から!」
言えば言うほど、ひどいことをした気がしてくる。
彼女は扇子を探しかけ、手元にないのでハンカチで口を押さえた。
「陛下が嫌がっていらした?」
「……いいえ。美味しいと」
「なら、よかったじゃない」
そんな簡単に片づくのだろうか。
私が水を飲むのを見ながら、彼女は事情を話してくれた。
学園の慰問費を調べるうちに、ユーグの取引先に帝国商人の名前が出てきたこと。
商人の訴えを集めると、王国が帝国との条約を破って余計な通行税を取っていたこと。
国内だけで訴えれば止められるおそれがあるので、証拠の写しを父公爵から帝国の査察部へ送ったこと。
「査察団は、先週から王都に入っていたのよ。陛下も通商会議に出席する予定で近くまでいらしていて、ご自身の目で確かめると仰ったそうなの」
「わざわざ卒業パーティーを?」
「ファビアン殿下が、今夜すべて片づけると触れ回っていたもの。証拠がある場所へ当人たちが集まる。査察官には好都合でしょう」
しかも、私の隣からなら会場全体が見渡せる。
その条件で席が決まったらしい。
「……そういうことなら、仕方ありません」
納得はした。
納得はしたけれど、手切れ金で買った椅子の隣に皇帝が来る確率については、まだ納得できない。
コンスタンツェ様が、私の手を見る。
「それで? 控室まで送っていただいたのね」
「警護のついでです」
「手をつないで?」
「階段ですから」
「ここ、同じ二階よ」
私は黙って水を飲んだ。
彼女がとうとう声を出して笑う。
「でも、シビル。お断りしたいなら、そう言っていいのよ」
笑いながらも、彼女は私の目を見ていた。
「陛下へお礼をすることと、陛下のお望みを何でもかなえることは、別だわ。困ったら、私の名前を出してちょうだい」
「……怒られませんか?」
「私が?」
彼女は少し考えた。
「その時は、お父様の名前も出すわ」
今度は私が吹き出した。
ずるい。でも、そういうところが好きだ。
扉が叩かれたのは、その時だった。
『キリアンだ。邪魔をしてもいいか』
私たちはぴたりと笑うのをやめた。
コンスタンツェ様が私を見る。私は少し迷い、頷いた。
「どうぞ、お入りください」
入ってきたキリアンの手には、銀盆があった。
給仕から受け取ったらしい。皿にサンドイッチ、その横に小さな焼き菓子が載っている。
「食事をしていなかっただろう」
「ポップコーンは食べましたけど」
「それは見ていた」
あ、また普通に返してしまった。
私が口を押さえると、彼は銀盆を卓に置きながら笑った。
コンスタンツェ様が立ち上がる。
「私は父の報告を聞いてまいります。シビル、向かいの部屋にいるわ。帰りは一緒に帰りましょう」
「はい」
彼女はキリアンへ一礼し、扉を少し開けたまま出ていった。
廊下には護衛と侍女がいる。
二人きり、ではあるけれど、妙に静まり返ることはなかった。
私はサンドイッチを一切れ取った。
お腹が鳴る前に食べたかったのに、ひと口目の直前に鳴った。
「……今のは」
「聞かなかった」
「笑ってます」
「すまん」
全然すまないと思っていない顔だった。
だから私も、黙って食べた。パンの間の卵は、まだ少し温かかった。
キリアンは向かいの椅子に座り、しばらく私が食べるのを見ていた。
やがて、肘を膝につき、少しだけ顔を近づける。
「シビル。俺はお前に惚れたらしい」
……危なかった。
ちょうど飲み込んだ後で、本当によかった。
「あの、陛下。話の順番を一つか二つ、飛ばしていませんか?」




