第7話
さっきまで、隣で殿下のマントを笑っていた人が。
我が国の国王陛下に、頭を下げさせている。
私は空の紙袋を、もう一度折った。
折り目が増えたところで、状況は何も変わらなかった。
「シビル」
「はいっ」
「袋がなくなるぞ」
笑いを含んだ声が耳元へ落ちる。
振り向くと、キリアンはさっきと同じ顔をしていた。
「へ、陛下……その、失礼の数々を」
「菓子を分けてもらった。礼を言うのはこちらだ」
「本当に、それだけで済ませていただけると……」
「何を恐れている。俺も一緒に笑っていただろう」
それはそうだけれど、皇帝陛下の悪口と貧乏伯爵令嬢の悪口では、重さが違うのでは。
いや、悪口自体は同じ内容か。
考えているうちに、査察官が入ってきた。
私に一礼し、携えていた書類をキリアンへ渡す。彼はその一部を受け取り、残りを国王陛下へ届けるよう命じた。
「顔を上げてくれ。俺が来たのは、礼を受けるためではない」
国王陛下が上体を起こした。
『査察団の滞在は承知しておりましたが、陛下が同行していらっしゃるとは存じ上げず……』
「知らせれば、取り繕う時間を与える。今夜は公爵家が用意した席から、見せてもらった」
アルスハイム公爵が、深く頭を下げた。
なるほど。それで隣席だったのか。
そこまでは分かった。なぜ私にひと言も教えてくださらなかったのかは、後で聞こう。絶対に聞こう。
「国王。帝国の商隊から、条約にない追加税を取っていた役人については、報告が届いているな」
『はい』
「押収した徴税命令には、ユーグの署名がある。見習いに預ける印としては、ずいぶん用途が広かったようだ」
財務卿が目を伏せた。
ユーグは懐へ手をやりかけ、衛兵に止められる。
「パスカルは徴税所の魔導帳簿を書き換え、正規の税率と見せかけていた。帝国側の支払記録と合わん。こちらの査察官も、貴国の監査に加えてもらう」
キリアンは書類から目を上げた。
「役人を差し替え、金を戻して終わりにはしない。誰の命令で、どこへ流れたかまで確かめる」
『異存はございません』
国王陛下の返事に、ユーグが何か叫んだ。
学園の帳簿なら父が何とかしてくれる。そんな最後の期待まで、今のひと言で消えたのだろう。
さっきまで父親に取りすがっていたユーグが、署名の写しを見せられた途端に口をつぐんだ。
私はグラスへ手を伸ばしかけ、やめた。
今は飲むより、よく見ていたかった。
「それから」
キリアンが、ファビアンへ視線を戻す。
「俺を捕らえろと言ったな。どの権限によるものだ」
『それは、陛下だとは知らず……』
「別人なら、笑っただけで牢へ送っていいのか?」
ファビアンの喉が動いた。
答えは出てこない。
『申し訳、ございません』
やっと聞こえた声に、私は妙に冷めた気持ちになった。
私が何を言っても、あれは冗談だと言い張ったのに。この人には、それが言えないのだ。
キリアンは、私の方を見た。
ほんの一瞬。私が目をそらさなかったのを確かめると、また階下へ向き直る。
「その謝罪を誰に向けるべきか、取り調べの間によく考えろ」
国王陛下が衛兵へ命じた。
五人の身柄が確保される。
コラリーは必死に弁明し、ガストンは自分で歩くと言い張った。ユーグは父を呼び、パスカルは封魔の輪ばかり見ていた。
ファビアンだけは、二階を見上げていた。
『シビル……』
私は答えなかった。
その人が扉の向こうへ消えるまで見届け、それから椅子へ腰を下ろす。
膝が、今さら少し笑った。
ずっと座って見ていただけなのに、妙に疲れていた。
「終わった、んですね」
「今夜はな。これから調べも裁きも残る」
「ええ。でも、あの人たちはもう、明日もいつも通りだなんて顔をして帰れません」
口にすると、それが急に嬉しくなった。
私は笑った。声は出なかったけれど、今まででいちばん楽に笑えた気がする。
キリアンが、そんな私をじっと見ている。
「……何でしょう」
「いや」
言いかけてやめ、彼は自分のグラスを持ち上げた。
しかし、飲まずにまた置く。
「祝杯を、改めてやりたいんだが」
私が返事をする前に、階下で国王陛下が彼を呼んだ。
控室での協議をお願いしたいという。仕事が終わったわけではないらしい。
キリアンは小さく息を吐き、立ち上がった。
「シビル嬢は、帝国の調査にも協力した証人だ」
今度は講堂へ届く声だった。
「彼女と家族への報復は許さない。警護については、公爵家と我が査察部で相談する」
国王陛下が承知したと答える。
私の横で、護衛の一人が静かに礼をした。
ありがたい。ありがたいのだけれど。
全員に見られている状態で名前を出されると、椅子の下へ潜りたくなる。
「あの、陛下。目立つのは、もう十分です」
「そうか? さっきの挨拶は堂に入っていたが」
「あれとこれは別です!」
うっかりいつもの声が出た。
彼は、それを待っていたように笑った。
「よかった。ようやく戻ったな」
差し出された手を見つめる。
取るべきか迷っていると、彼は掌を上にしたまま待っていた。
「控室まで送るだけだ」
私は指先をそっと載せた。
包まれた手は、驚くほど温かかった。
「では、そこまで」
「ああ。続きは、仕事を片づけてから頼む」
最後に彼が、折り畳んだ紙袋を卓から取ってくれた。
皇帝陛下にゴミを持たせている。
そう気づいた途端、どこからやり直せばいいのか分からなくなった。




