第6話
『シビル! お前なら分かるだろう!』
ファビアンの声に、私は手すり越しに微笑んだ。
「ええ。殿下のおっしゃる『優しさ』のことですね」
『そうだ! お前のような家の娘も、候補として側に置いてやったではないか!』
その言葉に、近くにいた令嬢が顔をしかめた。
誰かが、もう黙った方が、と囁く。
「頭から紅茶をかけられたことも、教科書を捨てられたことも、よく覚えていますわ」
『それは……冗談だ!』
「私が笑っていたことは、一度でもありました?」
ファビアンは口をつぐんだ。
国王陛下がこちらを見上げる。私は陛下へ一礼した。
「父が提出した訴えの控えは、監査局へ改めてお渡ししています。私が証言できるのは、そこに書いたことだけです」
隣でキリアンが、何も言わずに待っていた。
その気配が、今はありがたかった。
『シビル。悪かった。あれは側近が勝手にしたことで――』
「半年前、我が家へいらした時も、側近のせいだったんですか?」
ファビアンの目が泳いだ。
「候補を辞退する書面がようやく受理されて、父も母もほっとしていたんです。そこへ殿下がお越しになって、手切れ金だと財布を投げつけていかれた」
触る必要などないのに、額が痛んだ気がした。
私は指先を手すりに置いたまま、続けた。
「二度と顔を見せるな、とも」
『……だから、今、謝っているだろう!』
「まだ一度も、私に何をしたかはお認めになっていませんわね」
言葉が、思ったよりもすらすら出た。
考えていた嫌味はいくらでもある。けれど、今いちばん言いたいことは、たぶんこれだった。
「今日は、お礼だけ申し上げようと思っていたのです」
私は空になりかけた紙袋を持ち上げた。
『礼……?』
「この観覧席、金貨三枚でしたの。殿下に頂いたお金を、ようやく使わせていただきました」
誰かが小さく吹き出した。
コンスタンツェ様が扇子で口元を隠す。
「ずいぶん見晴らしのいい席です。誰が何をしたか、よく分かりました」
『貴様……!』
「ええ。おかげさまで、奨学基金への寄付もできました。次の生徒が教科書を買う足しになるそうです」
ファビアンが、唇を噛んだ。
今までなら、私はそこで口を閉じていた。
「殿下に、教科書の代金を出していただける日が来るなんて。世の中、分からないものですね」
今度は笑い声が広間へ広がった。
私は袋の底をのぞき、最後のキャラメルの塊をつまむ。
よくくっついた、大きなひとかけら。
下でファビアンが何か叫んでいる。
ひとかけらを口へ入れ、ゆっくり噛んだ。
甘い。
半年前の財布が、やっとただのお金になった気がした。
「あげないのか」
拡声具から離れたところで、キリアンが囁いた。
「え? 欲しかったんですか?」
「いや、下の男にだ」
「もったいないでしょう。並んで買ったんですから」
彼が口元を押さえた。
我慢しきれなかった笑いが漏れて、私もつられて笑った。
ファビアンが、こちらを指差す。
『その男は何だ!』
私は空の袋を折り畳んだ。
まだ話が終わらないらしい。
『シビル、お前、俺という婚約者がいながら! 男と酒を飲んでいたのか!』
「私は婚約者候補だっただけです。その候補も、半年前に正式に辞退しています」
『黙れ! 俺の許しもなく――』
『ファビアン』
国王陛下の声が飛んだが、もう聞いていない。
『どこの馬の骨だ! 衛兵、その男を捕らえろ! 俺を笑った罪で、牢へ入れてしまえ!』
キリアンが立ち上がった。
大きな体が私の横に並ぶと、ファビアンの声が一瞬だけ途切れた。
「牢に入れるのは構わんが、俺の連れが待っている。先に話を通してもらおうか」
キリアンはコートの前を開いた。
中は、漆黒の軍服だった。
左胸に留められた黒龍の徽章。その翼の中央で、透明な石が光っている。
その瞬間、階下で国王陛下が息を呑んだ。
『まさか……皇帝陛下ご自身が……』
え。
今、何と?
私が徽章を見つめている間に、バルコニーの入口から男が二人、進み出てきた。
さっき通路の端に立っていた人たちだ。給仕だと思っていたけれど、膝をつくと、コートの裾から剣の鞘が見えた。
『キリアン陛下。査察官は控室にてお待ちしております』
「こちらへ。国王にも聞いていただく」
国王陛下が胸に手を当て、深く頭を下げた。
王妃陛下も、公爵も、それに続く。何が起きたのか分からずにいた生徒たちも、次々に礼を取った。
隣の男が、手すりへ片手を置いた。
「ガルディニア帝国皇帝、キリアンだ。貴国から受けた不正徴税の件で、査察団とともに来た」
大陸北部の超大国。
我が国の宗主国。
今年即位したばかりで、肖像画より戦場での噂の方が広まっている若い皇帝。
ようやく、頭の中で名前がつながった。
――戦場の狂犬皇帝。
さっき、ポップコーンを三粒つまんだ指が、黒龍の徽章を軽く撫でた。
「さて。俺を牢へ入れる話だったな」
ファビアンは、何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。
ただひとつだけ、猛烈に後悔した。
最後のキャラメルの塊。
半分、残しておけばよかった。




