第14話
帝都へ来て、皇宮の客間で暮らし始めてから、ひと月が過ぎた。
客人として迎えられたはずなのに、私の部屋には、なぜか皇妃の礼装の見本が届いている。
「……まだ早いです」
仕立屋へ返す手紙にそう書いて、私はペンを置いた。
大評議会で少しお手伝いした話が、いつの間にか『皇帝を救った令嬢』という大げさな噂になっている。
市場で見かけた菓子にまで、神眼の令嬢という名前がついていた。
ただの干し葡萄入りの焼き菓子だった。美味しかったのが、余計に困る。
キリアンに話したら、本人も噂に困っているらしかった。
『俺は、毒を飲んで倒れたことになっていた』
『私が解毒したんですか?』
『そうらしい』
『私、火傷の軟膏くらいしか作れませんよ!』
あの時の彼の笑い声を思い出し、つい口元が緩む。
卓の端には、父と母から届いた手紙があった。
帝都の滞在用の屋敷で暮らす二人は、こちらの市場と食べ物にすっかり慣れたらしい。父は領地から届く報告を読み、紹介された経営の専門家に相談しながら、少しずつ立て直しの準備をしている。
『陛下が、先日持ってきてくださったお酒を一緒に飲もうと仰ってね』
父の字が、そこだけ楽しそうに大きかった。
仕事の相談のはずが、途中から私の子供の頃の話になった、と続いている。
何を話したのか、帰ったら問い詰めなければ。
お酒一本で、娘の秘密を売らないでほしい。
その隣には、コンスタンツェ様からの手紙。
同封された布は、つややかな白い絹だった。
『ドレスにでも、何にでも使ってちょうだい。用途を決めるのは貴女よ』
そう書いておいて、末尾には小さく、『婚礼なら早めに知らせてね。最前列を頂くわ』とある。
本当に、抜け目のない人だ。
でも、彼女自身も元気そうだった。学園の監査を手伝った経験を生かして、公爵家の仕事へ本格的に加わるという。
誰かの婚約者としてではなく、自分の名で呼ばれる仕事が増えたと、嬉しそうに書いてあった。
私は返事を書き始めた。
近況なら、いくらでもある。
劇場へ行った。今度はきちんと最後まで芝居を見た。
工房で新しい記録具を見せてもらい、私が質問し続ける間、キリアンは隣で待っていた。
彼の仕事が終わらず、一緒に食べるはずの夕食が遅くなった日もあった。
あの日、彼は謝りながら部屋へ来た。
冷めた皿を下げようとする給仕を止め、二人でそのまま食べた。肉が硬いと言ったら、陛下もだいぶ疲れた顔をしていますと返してしまい、むせるほど笑われた。
派手な出来事ばかりではなかった。
私は、その夕食のことを何度も思い出している。
返事の途中で、廊下の時計が鳴った。
庭で会う約束の時刻だ。
私が外套を取ると、侍女が微笑んだ。
「陛下は、もうお待ちです」
「また早くいらしたんですね」
「今日は、少し落ち着かないご様子で」
私は手紙を伏せた。
胸が、何かを先に知ったように鳴った。
* * *
庭に面した小さなテラスで、キリアンが振り返った。
夕方の光が、黒髪の端を赤く染めている。
「待たせました?」
「いや」
いつもなら隣へ来るのに、その日は少し離れたままだった。
私は手すりに指を置いた。
「……何か、お話が?」
「ある」
キリアンが内ポケットへ手を入れた。
取り出した小箱を見て、息が止まる。
蓋の内側に、琥珀色の石があった。
夕陽を受けて金色に光る、小ぶりな指輪。
「星彩石という。帝国で採れる石だ」
彼が言った。
「もっと大きいものを勧められたんだが、お前は道具を触る時に邪魔だと言いそうでな」
「……言いますね、きっと」
私は笑った。
笑ったら、鼻の奥がつんとした。
キリアンが、私の前に片膝をついた。
何か言おうとして、言葉が出ない。
「最初は、俺の隣でよく笑う女だと思った」
彼は私を見上げた。
「近くにいたくて、何度も会いに行った。会うとまた、次の約束を取りつけたくなった。帝都へ戻ってからは、手紙の返事を待つのが長かった」
ああ、同じだったのだ。
窓の外の足音がすると顔を上げたこと。封筒を開く前に、手を拭き直したこと。
私だけではなかった。
「昨日、執務が終わって部屋へ戻る時、考えたんだ。お前にくだらない話をして、寝る前に笑ってもらえたら、どんなにいいかと」
彼がひとつ息をついた。
「皇妃の役目には、気の重いこともある。何もかも楽しいとは言えない。それでも、分からないことは一緒に覚えていきたい」
伸ばされた手へ、私も手を重ねた。
「シビル。俺の妻になってくれ」
指先を握る力が、少し強くなった。
「お前に、隣にいてほしい」
用意していたはずの返事が、いっぺんに飛んだ。
機転の利いたことを言いたかった。いつもみたいにからかって、笑わせて、それから頷くつもりだったのに。
「……私も、です」
声が小さくなった。
私は一度息を吸って、彼を見た。
「美味しいものを食べると、陛下も好きかしらって考えます。面白いことがあると、後でお話ししようって。最近は、何をしていても」
キリアンが、私の手を両手で包んだ。
「だから、はい。お受けします。ずっと、一緒にいてください」
彼が目を閉じた。
ほんの短い間だった。それから顔を上げた時、見たこともないくらい嬉しそうに笑った。
「もちろんだ」
指輪が、右の薬指へ滑り込む。
試作品の寸法を、侍女に相談しながら合わせたのだと、少し照れた顔で教えてくれた。
知らないところで準備してくれていた、その手間が嬉しかった。
立ち上がった彼へ、私から一歩近づいた。
「ひとつだけ、お願いしてもいいですか」
「何でも」
「また、朝食を作ってください。今度は、私も手伝います」
「焦がしてもか?」
「そこは、気をつけていただいて」
彼が笑い、私も笑った。
頬へ手が添えられる。
私は自分から目を閉じた。
最初の口づけは、思っていたより短かった。
離れた顔がすぐ近くにあって、名残惜しいと思ったら、今度は少し長く重なった。
「愛している、シビル」
「私も。……キリアン様」
初めてそう呼ぶと、彼の耳が赤くなった。
私は、それを忘れないようによく見ておいた。
婚礼の日取りは、これから決める。
両親へ話して、コンスタンツェ様へ知らせて、覚えることも準備することも、たくさんある。
でも今は、もう少しここにいたかった。
つないだ手をほどかずにいると、キリアンも何も言わず、私の隣へ座ってくれた。




