最終話
求婚を受けてから、三か月。
帝都の教会で、朝から鐘が鳴っていた。
式の準備と、宮廷儀礼や帝国の歴史を学ぶ日々で、あっという間だった。まだ教わることは山ほどあるけれど、今日の手順だけは、何度も練習してきた。
大聖堂の控室で、私は姿見の前に立っている。
コンスタンツェ様が贈ってくださった白い絹は、ウェディングドレスになった。裾には銀糸の百合。腰のあたりには、小さな黒龍の刺繍。
右手の薬指には、あの日の星彩石が光っている。
「……ちゃんと歩けるかしら」
呟くと、背後から笑い声がした。
「昨日の練習では、歩いていたでしょう」
「今日は人がいます」
「卒業パーティーでも、いたわね」
コンスタンツェ様が、鏡越しに目を細めた。
王国の特使として来てくださった彼女は、朝から私のそばにいる。
何度も確かめた裾を、もう一度だけ直してくれた。
「あの時と同じだわ。まっすぐ立って、相手を見ればいいの」
「見たら、余計に緊張しそうです」
「あら。では、おあいこね。陛下も今朝から、ずいぶん落ち着かないと伺ったわよ」
想像できてしまった。
早く来すぎて、手伝うことを探しているかもしれない。祭壇でエプロンをしていないといいのだけれど。
笑った私を見て、彼女は満足そうに頷いた。
「うん。その顔」
私は振り返った。
「コンスタンツェ様。あの日、馬車に乗せてくださって、ありがとうございました」
泥のついた制服で、座席を汚した。
そんなことは構わないと、彼女は私の手へ乾いたハンカチを押しつけてくれた。
「あの日だけじゃありません。ずっと、味方でいてくださって」
彼女が扇子を閉じた。
少し困った顔で笑い、私の頬に触れる。
「貴女も、私の味方でいてくれたでしょう」
「……はい」
「これからも、そうでいてね」
私は頷き、彼女の手を握った。
彼女が先にハンカチを出したので、私も泣いていい気がした。でも侍女が慌てて駆け寄ってきたので、二人で笑ってしまった。
扉が叩かれた。
父が、迎えに来ていた。
「シビル。支度は……」
私を見た途端、父は口を閉じた。
次に目元を押さえた。
「お父様、まだ早いです!」
「分かっている。分かっているんだが」
礼服の袖を差し出してもらい、腕を取る。
父の手は少し震えていた。私も震えていたから、ちょうどよかった。
* * *
大聖堂の扉が開いた。
光と、楽の音と、たくさんの顔。
一瞬足が止まりそうになって、私は父の腕に添えた手へ力を入れた。
来賓席に母がいた。
隣のコンスタンツェ様が、閉じた扇子で自分の左肩を、ひとつ叩く。
あの夜と同じ合図。
今度は、大丈夫、行っておいで、と見えた。
私は前を向いた。
祭壇の前にキリアンが立っている。
黒と白の礼服。肩から長いマントが流れていた。
こちらへ歩き出しかけ、途中で思いとどまったのが分かった。
ちゃんと待っている。
近づくにつれ、その顔がはっきり見えた。
いつもより、ずっと緊張している。
父が立ち止まり、私の手をキリアンへ託した。
「娘を、よろしくお願いいたします」
「はい」
返事は短く、確かだった。
父が席へ向かうのを見送ってから、私は隣を見上げた。
「お待たせしました」
「待つのも、悪くないな」
そう言うくせに、握った手を一度も離さない。
「綺麗だ」
小さな声で言われて、私は目を伏せた。
何度も褒められたドレスなのに、そのひと言で、着てよかったと思った。
「キリアン様も、お似合いです。……マントの裾にはお気をつけて」
彼の肩が揺れた。
神父様がこちらを見たので、二人とも慌てて前を向く。
誓いの言葉を聞いた。
喜びの日も、困難な日も、と続く声に、私はしっかり頷いた。
きっと喧嘩もする。
仕事がうまくいかず、笑えない日もある。
それでも、その日の終わりにはこの手を取りたい。朝になったら、また一緒に食卓へ座りたい。
「誓います」
自分の声が、大聖堂の高い天井へ響いた。
キリアンも、同じ言葉を口にした。
ベールが上がる。
私は彼を見て、笑った。
重なった唇が離れる前から、客席で拍手が起きた。
* * *
式を終え、皇宮のバルコニーへ出ると、広場から大きな歓声が上がった。
キリアンに教えられた通り、ゆっくり手を振る。
右からも左からも声が飛んできて、どちらを向けばいいのか分からない。
隣の彼が、小声で言った。
「急がなくていい。まだ時間はある」
私は頷き、もう一度、広場を見た。
小さな子供が、誰かの肩の上で旗を振っている。母親らしき人がその手を支えていた。
思わず、そちらへ振り返す。
子供の旗が、ますます大きく揺れた。
挨拶を終え、二人で奥の小さな控室へ戻った時には、腕がすっかり疲れていた。
私は椅子へ腰を下ろし、深く息を吐く。
「皇妃のお仕事、腕にもきますね……」
「最初の日から働かせすぎた」
キリアンが私の手を取り、指を軽くほぐしてくれた。
その向こうの卓に、見覚えのある紙袋がある。傍らには、冷えたシャンパンと二つのグラス。
「……まさか」
「西通りの店主から作り方を教わったそうだ。うちの料理人が張り切っていた」
袋を開く。
甘く香ばしい、キャラメルの匂い。
私は一粒口に入れた。
さくっ。
思わず、笑ってしまった。
これだ。ずっと楽しみにしていた味だ。
キリアンが隣の椅子を引く。
私の袋を見て、あの夜と同じように尋ねた。
「相席、いいか」
「ええ。でも、ここは自由席じゃありませんよ」
彼が片眉を上げた。
「予約が?」
「はい。夫の席です」
キリアンは何か言いかけ、口を閉じた。
それから、たまらないという顔で笑った。
「では、俺の席だな」
ぴったり隣に座られる。
私は肩を寄せ、袋を二人の間へ置いた。
袋の底にあるキャラメルの塊は、もう独り占めしなくていい。
半分に割って、大きい方を彼に渡す。
「どうぞ。今日も、明日も、その先も」
「ああ。ずっと、ここにいる」
窓の外では、まだ鐘が鳴っている。
私は愛しい夫とグラスを合わせ、それから、待ちきれずにもう一粒つまんだ。




