第九十四章:曹操の重臣たちは、劉備との講和を進言した
曹操の使者が講和を口にしたころ、西方から馬超の騎兵がやって来た。
彼らの鎧は旅の泥に汚れ、馬の背には擦れた跡があった。
馬超は劉備の前で膝をつかず、「曹操と戦うなら、我らの槍を使ってくれ」と言った。
劉備は答えを急がなかった。
「まず兵を休ませよう。話は温かい飯を食べてからだ」
馬超の目が一瞬だけ揺れた。
戦場での約束より、飢えた部下に出された一杯の汁が彼の心を動かしたのかもしれない。
馬超の部下は小麦の粉を練って焼いた薄い餅を好んだ。
俺は豆を挽いた粉を混ぜ、乾燥させた葱と塩を少し加えた。
騎乗したまま食べられるが、水が足りなければ喉につかえる。
馬超は「西の道では水が命だ」と言い、騎兵の水袋の結び方を教えてくれた。
俺が考えた袋の口金は、走る振動で漏れた。
馬超の古参兵が革紐を二重に回すと、ようやく止まった。
技術は一人の頭から生まれるものではない。
講和の条件は厳しかった。
曹操は荊州の城を返せと求め、こちらは避難民の帰還と略奪の停止を要求した。
龐統は使者の表情を見て「時間を稼ぎたいのでしょう」と囁いた。
孔明は「ならばこちらも時間を使いましょう」と答えた。
馬超は拳を握ったが、劉備が制した。
「使者は敵でも、使者を斬る国にはならぬ」
馬超は長く黙り、それから剣を鞘へ戻した。
その夜、馬超は趙雲と馬場で並んだ。
互いの槍を見て、どちらからともなく笑う。
「俺は突き抜ける槍だ」と馬超。
「私は帰ってくる槍です」と趙雲。
夜が明けると、二人は騎兵の進路を地図に引き、突撃と救援を別々の隊に任せることにした。
曹操との講和はまだ決まらない。
だが劉備軍には、新しい力と、それを受け止める器が生まれ始めていた。
俺たちが向かったのは曹操の本営と荊州の劉備軍営だった。
曹操陣営で戦の継続をめぐる議論が割れる。
赤壁で曹操の大艦隊を破ったとはいえ、荊州の城や街道がすべて味方になったわけではない。
戦が長引けば、せっかく救った民がまた飢える。
俺は地図の端に、兵糧の残りと一日の消費を小さく書き込んだ。
講和の席で曹操の使者は、劉備軍が捕虜を厚遇するという噂を嘘だと断じた。
俺は証拠として解放した兵の名を挙げたが、使者はそのうち一人が帰郷できていないと告げた。
調べると、こちらの護送係が帰路の橋の崩落を把握しておらず、負傷兵を宿場に置き去りにしていた。
俺は弁解せず、馬超の騎兵に医師と食料を届けてもらった。
使者は謝罪の文書を受け取っても笑わなかった。
約束を守るとは、書面を整えることではなく、帰るべき人を家へ帰すことだ。
俺の仕事は捕虜にも同じ衛生基準の食事を与え、病の広がりを防ぐことだった。
職人を呼び、炊事係と荷運びの兵を集める。
机の上の図では簡単でも、現場で使える形にするには手間がかかる。
最初の試みでは思うように進まず、年配の職人が「手を動かす前に現物を見ろ」と叱ってくれた。
やがて、曹操は時間稼ぎの使者を送るが、劉備軍は主導権を保った。
報告を受けた劉備は、勝利を祝う前に「民に被害はないか」と尋ねた。
俺は負傷者の名簿を持って前へ出た。
完璧な戦などない。
だから、少しでも被害が小さく済んだことを確かめるまでは喜べなかった。
馬超の部下たちが初めて劉備軍の食卓についた夜、誰も戦果を尋ねなかった。
代わりに張飛が西方の料理の辛さを問い、馬超の兵が笑いながら香辛料の袋を取り出した。
俺はその光景を見て、味の違う食事を一緒に囲めるなら、同じ旗の下で戦う第一歩にもなるのだと思った。
馬超の加入を決める前に、劉備は彼の兵を自軍の騎兵と混ぜず、一日休ませた。
古参の将の中には「信用できぬ」と囁く者もいた。
馬超もそれを聞いていたらしい。
夜が明けると、彼は趙雲に模擬戦を申し込んだ。
二人は木槍を持って馬を走らせた。
馬超は一撃の速さで勝り、趙雲は間合いを崩さない。
三度目に馬超の馬が足を滑らせると、趙雲は槍を止めた。
「なぜ打たぬ」「味方になる相手を、ここで傷つける必要はありません」
馬超は木槍を下ろした。
俺は馬超の馬の蹄を見て、長旅で片側だけ減っていることに気づいた。
鍛冶師に相談し、蹄を傷つけずに保護するための革と金具を試した。
だが試作の金具は硬い地面で外れ、馬が驚いて跳ねた。
馬超は俺を叱る代わりに、故郷の馬丁を呼んだ。
「西の石道ではこう結ぶ」
革の締め方を変えると、歩様が落ち着いた。
俺は図面を修正した。
新しい知識を持ち込んだつもりで、昔から積み重ねられた知恵を見落としていた。
その夕刻、馬超は劉備の前に改めて進み出た。
「俺の槍は曹操を討つためにある。だが、部下が食える場所を与えられた恩も忘れぬ」
劉備は彼の手を取った。
「仇を討つためだけではなく、戦を終わらせるために力を貸してほしい」
馬超はすぐには答えず、炊事場で笑う部下たちを見た。
「難しい注文だ」
それから、ゆっくりと頷いた。
俺はその夜、彼らが好む焼き餅の作り方を帳面き足した。
馬超の騎兵に新しい配給を渡すと、若い兵が「故郷の味に少し似ている」と言った。
俺は嬉しくなり、どこが違うのか尋ねた。
兵は香りだと答え、乾かした香草を指で潰して見せた。
翌日から餅の配合を少し変えた。
劉備軍の飯は一種類でなくていい。
遠い土地から来た兵が、食べるたびに帰る場所を思い出せるなら、それも強さになる。
馬超が食堂に入ると、張飛は待っていたように椀を差し出した。
「西の騎兵は辛いものが好きだろう」
馬超は一口すすり、顔色一つ変えずに「悪くない」と答えた。
次の瞬間、張飛が自分の椀を飲んで真っ赤になった。
俺が辛味を半分にした別鍋を出すと、馬超は初めて口元を緩めた。
「騎兵の勇猛さと、舌の強さは別らしい」
張飛は水を飲みながら「次は馬で勝負だ!」と叫び、趙雲が静かに「馬が気の毒です」と言った。
騎兵の馬具を直す工房に、馬超は自分の兵を連れてきた。
俺が説明するより早く、兵たちは壊れやすい箇所を指さした。
彼らが生き延びた経験こそ設計図だった。
趙雲は馬超に、味方の歩兵が退く時の合図を教えた。
馬超は代わりに砂地で馬を疲れさせない走り方を教えた。
二人は互いの技を盗もうとして、いつしか笑っていた。
新しい焼き餅を食べた劉備は「うまい」と言った。
馬超は「西の味にはまだ遠い」と笑った。
俺はその言葉を誉め言葉だと思うことにした。
改良する余地が残っている。
その日の夕方、斥候が戻った。
敵の動きは予想より早い。
作戦会議の空気が引き締まる。
孔明は報告を聞くと、地図の小石を一つずらした。
龐統は目を細め、「相手もこちらの勝ち方を覚えていますな」と呟いた。
俺は火薬の保管庫へ向かった。
封を確かめ、雨除けを点検し、扱う兵に安全の決まりをもう一度伝えた。
火薬を最初に作ったのは俺だ。
だからこそ、威力を誇るより先に、使わずに済む場面を考えたい。
孔明もその点では意見が一致していた。
夜が明けると、兵が動き始めた。
関羽の隊は整然と進み、張飛の隊はあえて目立つ道を選んだ。
敵から見れば無謀に映るかもしれない。
だが、龐統が選んだ時刻と孔明が読んだ地形には意味がある。
俺は後方で、伝令が途切れないよう交代の場所を確認した。




