第九十三章:劉備軍の進撃が速すぎて、敵の伝令が追いつかなかった
魏延の先遣隊が川を越えれば、敵の関門へ一日早く着ける。
俺は橋の修理を半日で終えるよう頼んだ。
地元の船頭が「今夜は上流で雨が降る」と告げたが、空を見上げた俺は、ここでは降っていないと答えてしまった。
夜半、川の音が変わった。
仮設の板が浮き、荷車の片輪が橋の端を踏み抜いた。
麦袋が水へ落ち、荷台を支えようとした兵が脚を挟まれた。
仲間が麦を追って川へ飛び込もうとする。
魏延がその襟をつかんだ。
「麦はまた運べる。お前まで流されたら誰がこいつを背負う!」
俺は図面を持って走った。
「支柱を増やせば、今すぐ――」
「図面を直す前に、人を見ろ!」
魏延の怒鳴り声で手が止まった。
板の下から聞こえるうめき声に、ようやく気づいた。
趙雲と俺は縄を引き、職人が梁を持ち上げた隙に兵を救い出した。
血で濡れた脚を見て、俺は自分が何を急がせたのかを知った。
「水位を読み違えたのは私です」と若い職人が言った。
俺は首を振った。
「確かめる時間を奪ったのは俺だ」
修理の指揮を職人へ返し、船頭にも立ち会ってもらう。
進軍予定を二日遅らせた。
橋が完成した朝、最初に渡ったのは麦の荷車ではなく、後方の治療所へ向かう負傷兵を乗せた車だった。
「今度はゆっくり渡ってくれ」
兵が笑った。
俺は笑えず、「必ず」とだけ答えた。
伝令が追いつかないのは敵だけではなかった。
俺たちの前衛も、進む速さに補給が置いていかれかけていた。
黄忠が矢を数え、魏延が谷の通行幅を測り、趙雲は騎兵を半分ずつ交代させた。
孔明は「速さとは走ることではなく、止まらないことです」と言った。
俺は三日分の麦飯を乾かして薄い板状にし、湯で戻せるようにした。
試食した兵は「固い」と顔をしかめた。
ならば歯の弱い者にも食べられるよう、粉にした豆を混ぜて改良する。
敵の伝令は街道の宿場で馬を替えようとした。
しかし宿場の主人は曹操軍の徴発で馬を失っていた。
龐統はそこに目をつけ、劉備軍の伝令には村ごとに二頭ずつ休養馬を預けた。
馬を取り上げるのではなく、餌代と世話代を先に払う。
主人は驚いた顔で銭を数え、「それなら夜でも起きて待つ」と言った。
敵軍が使えなかった宿場が、こちらには頼れる道しるべになった。
橋の修理を待つ間、敵の斥候が対岸に姿を現した。
魏延は少数の兵で岸を守り、趙雲は避難してきた村人を木立へ導いた。
敵が渡る気配を見せると、魏延は大声で「橋を壊したのはこっちだ。お前たちまで濡れに来るな!」と挑発した。
兵たちが思わず笑い、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
夕刻、敵の司令部には「劉備軍はまだ南にいる」という古い報告が届いた。
実際には魏延が北の関門を押さえ、趙雲が退路の村へ到着していた。
関門の兵は戦う前に武器を下ろした。
俺は勝利の報告より先に、馬の餌と水を運ぶよう指示した。
明日の朝も同じ速さで動けるか。
それが本当の勝負だった。
俺たちが向かったのは荊州の街道網だった。
曹操軍の命令が遅れ、各砦の判断が食い違う。
赤壁で曹操の大艦隊を破ったとはいえ、荊州の城や街道がすべて味方になったわけではない。
戦が長引けば、せっかく救った民がまた飢える。
俺は地図の端に、兵糧の残りと一日の消費を小さく書き込んだ。
策の中心は、俺が伝令所と交代馬の配置を整え、孔明が敵の報告の遅れを読んで進軍することだった。
武器を見せつけるだけでは敵は意地になる。
逃げ道を塞ぎすぎれば、追い詰められた者が無茶をする。
だから孔明は敵が退ける道を残し、龐統はその道を選びたくなる理由を用意した。
俺の仕事は携行食の麦餅に塩漬け豆を添え、兵の食事を安定させることだった。
職人を呼び、炊事係と荷運びの兵を集める。
机の上の図では簡単でも、現場で使える形にするには手間がかかる。
最初の試みでは思うように進まず、年配の職人が「手を動かす前に現物を見ろ」と叱ってくれた。
やがて、敵の集結前に要所を押さえ、戦線を大きく前進させた。
報告を受けた劉備は、勝利を祝う前に「民に被害はないか」と尋ねた。
俺は負傷者の名簿を持って前へ出た。
完璧な戦などない。
だから、少しでも被害が小さく済んだことを確かめるまでは喜べなかった。
伝令の少年が眠り込むと、趙雲は自分の外套を掛けた。
魏延は地図の上で次の近道を探している。
俺は馬の餌袋を補充しながら、速さを競う戦ほど休む場所が必要だと痛感した。
夜明け前に、宿場の女主人が温かい湯を持ってきた。
「今度はちゃんと払ってくれる軍なんだね」と彼女は言った。
その日の昼、先行した魏延の隊から「予定の時刻までに橋を渡れない」と知らせが来た。
伝令の若者は汗だくで、馬も泡を吹いている。
孔明は怒らず、伝令が何刻に出発し、どの宿場で止まったかを聞いた。
原因は橋だけではない。
宿場で休養馬を預かる者が、軍用の鞍を付け替えられなかったのだ。
俺は職人を呼び、鞍の留め具を二種類から一種類に統一した。
ただし古い馬具はそのまま使えるよう、紐を通す穴を残した。
「便利な物を作っても、使い方を教えなければ役に立たぬ」
黄忠が言い、兵を集めて実演した。
彼は年長の弓兵に道具を渡し、わざと手順を説明せずにやらせた。
留め具は上下を逆に付けられ、鞍がずれた。
笑いかけた若者を黄忠は睨む。
「失敗した者を笑うな。教えぬ者を叱れ」
俺は手順を絵に描き、宿場の壁に貼ることにした。
現代なら当たり前の取扱説明書が、この時代には兵の命を左右する。
敵軍の側も手をこまねいてはいなかった。
遅れた報告を取り戻そうと、二騎の伝令が山道を抜けてきた。
趙雲は彼らを追い詰めたが、殺さず馬を止めた。
伝令の一人はまだ少年で、封書を胸に抱えたまま震えていた。
「伝えなければ家族が罰せられる」
趙雲は封書を受け取り、少年の名と村を聞いた。
俺は敵将への通告文に、伝令の命を保証する一文を加えた。
戦の速さを競う間にも、人はそれぞれ守りたいものを抱えて走っている。
橋を渡った最後の荷車には、矢でも火薬でもなく、補修用の木材が載っていた。
魏延は「これで進軍が遅れる」と不満を言ったが、次の日の朝にはその木材で村の水車を直していた。
村長が頭を下げると、魏延は照れくさそうに顔を背けた。
趙雲が「速く進むだけでは味方は増えません」と言う。
俺は修理に使った板の寸法を記録した。
次はもっと早く直せるはずだ。
橋を渡った村の子供が、魏延へ木の実を一つ差し出した。
魏延は「俺に賄賂か」と眉を上げ、子供が泣きそうになると慌てて受け取った。
趙雲が笑いをこらえる横で、魏延はその木の実を大切そうに懐へしまった。
伝令の馬には水を飲ませる時間が必要だった。
俺は宿場ごとの水桶を数え、馬の休養を無視した無茶な予定を消した。
急ぐほど立ち止まる計算が要る。
趙雲は捕らえた伝令を村へ送り届ける兵を選んだ。
少年は何度も振り返り、最後に深く頭を下げた。
誰の名も歴史には残らないが、あの帰り道には意味があった。
夕食の席で魏延が俺の椀に豆を一つ落とした。
「橋を急がせた罰だ。今夜はこれだけ食え」
俺が固まると、魏延は大笑いして山盛りの麦飯を寄こした。
「腹が減った頭でまた間違われては困る」
趙雲も笑った。
叱られた痛みは消えないが、次に進む力を少しだけもらえた。
治療所へ向かう負傷兵の車が丘の向こうへ消えるまで、魏延は橋のたもとに立っていた。
「あいつは俺の隊に来て三日だ。名前もろくに聞いていなかった」
俺は返す言葉を探したが、見つからなかった。
やがて船頭が水位を測るための印を新しい杭に刻んだ。
魏延はその横に立ち、二度と見落とさぬよう、夜番にも印の読み方を教えた。
俺は図面を畳み、最後まで手伝った。
夕暮れ、治療所から使いが戻った。
橋で脚を挟まれた兵は命を取り留め、故郷の母へ手紙を書きたがっているという。
魏延は懐から先ほど子供にもらった木の実を取り出し、俺に渡した。
「あいつに持っていってくれ。生きて帰った祝いだ」
俺は頷いた。
進軍を急ぐ理由を何度も口にしてきたが、立ち止まって待つべき命もある。
川の音を聞きながら、俺は負傷兵の名前を、今度こそ忘れないよう胸の中で繰り返した。




