第九十一章:張飛は五千の兵で、曹操軍二万の進路を断った
「二万の兵が動くのに、道が一本しかない?」張飛は地図を覗き込み、眉を寄せた。
俺は首を振った。
「一本に見えるだけです。雨季の旧道が西にあります。ただし車輪の重い荷車は通れません」
龐統がそこで笑った。
「敵の将は兵数を信じている。ならば荷車を守ろうとして隊列を伸ばすでしょう」
張飛はようやく口の端を上げた。
「つまり俺の五千は、二万と一度に戦う必要がないわけだな」
「ええ。先頭と最後尾を別々に相手にしていただきます」
俺たちは荷車の軸に硬い木の輪をはめ、壊れたときは丸ごと交換できるようにした。
ところが試走では坂の途中で輪が抜け、麦袋が泥に落ちた。
若い車大工が青くなったが、張飛は笑わなかった。
「戦場で抜けたら兵が死ぬ。ここで抜けてよかったな」
俺は留め具の形を変え、荷を積んだまま三度坂を往復させた。
炊事係には麦と豆を別に煮て、出発直前に合わせるよう頼んだ。
冷えて固まる粥より、包んで持てる麦飯のほうが走る兵には向いている。
俺が見落としたのは、西の旧道から峠へ戻る細い出口だった。
伝令をそこへ通せば安全だと判断したが、敵の斥候は先に回り込んでいた。
帰りの遅い伝令を探すため、張飛は百人を割く。
正面の木柵が一時破られ、槍兵二人が負傷した。
「俺の見立てが甘かった」
張飛は俺の肩をつかんだ。
「謝るのは後だ。あいつらを連れて帰る道を考えろ」
村の猟師が崖沿いの獣道を教えてくれた。
張飛はそこへ軽装の兵を送り、伝令を救い出した。
傷ついた兵を担架に載せると、俺は次の道案内を必ず地元の者と確かめると約束した。
勝っても、判断を誤った事実は消えない。
敵の先鋒が峠へ踏み込んだとき、張飛は旗を上げなかった。
山肌に隠した兵が木柵を転がし、狭い道を塞ぐ。
先頭が立ち止まると後続は進めず、後ろの荷車だけが旧道へ逃げようとした。
そこに龐統が用意した偽の道標が立っていた。
敵将は罠だと気づき、すぐ兵を引き戻した。
だが張飛は追わず、背後の高台へ移って次の曲がり角を押さえた。
「逃げたと思わせて、もう一度止める」
敵は数の利を生かす場所に出られない。
日暮れ、敵将は二万を抱えたまま撤退を決めた。
張飛の隊にも負傷者が出たが、崩れた荷車の板を担架に転用し、夕刻までに全員を後送できた。
俺が張飛に「五千で二万を退けた」と言うと、彼は不満そうに鼻を鳴らした。
「俺が勝ったんじゃねえ。あの峠と、車を直した連中が勝たせたんだ」
炊事場で兵が笑い、張飛はその輪の中で麦飯を二つ平らげた。
俺たちが向かったのは漢水へ続く狭い街道だった。
曹操軍の援将が二万を率いて奪還に向かう。
赤壁で曹操の大艦隊を破ったとはいえ、荊州の城や街道がすべて味方になったわけではない。
戦が長引けば、せっかく救った民がまた飢える。
俺は地図の端に、兵糧の残りと一日の消費を小さく書き込んだ。
「今回は張飛が要になります」と孔明が告げた。
龐統はすぐに「ただし敵の思う通りには動かぬことです」と付け足した。
二人の言葉は短いのに、いつも俺の頭の中にいくつもの仕事を生む。
策の中心は、龐統が敵の先鋒を別路へ誘い、孔明が火薬の威嚇と煙で敵の隊列を分断することだった。
武器を見せつけるだけでは敵は意地になる。
逃げ道を塞ぎすぎれば、追い詰められた者が無茶をする。
だから孔明は敵が退ける道を残し、龐統はその道を選びたくなる理由を用意した。
俺の仕事は荷車の車輪と軸を改良し、熱い麦飯を前線へ届けることだった。
職人を呼び、炊事係と荷運びの兵を集める。
机の上の図では簡単でも、現場で使える形にするには手間がかかる。
最初の試みでは思うように進まず、年配の職人が「手を動かす前に現物を見ろ」と叱ってくれた。
やがて、張飛の五千は峠を守り抜き、敵の主力は撤退を始めた。
報告を受けた劉備は、勝利を祝う前に「民に被害はないか」と尋ねた。
俺は負傷者の名簿を持って前へ出た。
完璧な戦などない。
だから、少しでも被害が小さく済んだことを確かめるまでは喜べなかった。
張飛が勝利の知らせを持ち帰った夜、炊事場には泥だらけの兵が並んだ。
峠で敵を止めた者も、壊れた車輪を直した者も、同じ湯気の立つ椀を受け取る。
俺は張飛の皿に麦飯を盛りながら、あの五千の中には地図に名前の残らない働き手が大勢いるのだと思った。
だが撤退した敵がすぐに敗走したわけではない。
夕暮れの見張りから、東の斜面に新しい松明が見えた。
敵将は五百の軽装兵を残し、こちらが勝利を祝う隙に水場を奪うつもりらしい。
張飛は盃を置き、俺の前に地図を広げた。
「夜のうちに水を奪われれば、明日動けなくなるな」
俺は頷き、沢から野営地まで水を運ぶ桶の数を数えた。
水場を守るために兵を割けば、峠の封鎖が緩む。
孔明は別の答えを出した。
「守る場所を一つにしない。水を先に移しておきましょう」
夜半、兵たちは暗い沢で水を汲み、封をした甕を荷車に載せた。
濡れた縄が滑り、甕を一つ割ってしまった。
若い兵が謝ると張飛は自分で破片を拾い、「水より指を切るな」と言った。
彼の大声は敵に届く。
そこで龐統はあえて水場に大きな焚火を置き、兵が集まっているように見せた。
敵の軽装兵は焚火へ向かったが、そこで見つけたのは空の桶と消えかけた炭だけだった。
こちらの主力はすでに尾根を越え、峠の出口を固めていた。
夜が明けると、敵の将から使者が来た。
水と食料が尽きかけている、退路を保証してほしいという。
張飛は「昨日まで村の井戸を占めていた奴らだ」と憤った。
俺はその怒りを否定できなかった。
ただ、敵兵が水を奪おうと村へ下りれば、結局困るのは民だ。
張飛は長い沈黙の後、敵が武具を収めて退くなら沢を使わせると答えた。
「俺は甘くなったか」
彼は俺に尋ねた。
「いいえ。勝ち方が増えたんです」
張飛は鼻を鳴らし、今度こそ冷めた麦飯を食べた。
張飛の隊は峠を離れる前、倒れた木柵を片づけた。
村人が使う道を塞いだままでは、敵を退けても暮らしが戻らないからだ。
俺は職人に、壊れた柵からまだ使える釘を抜いてもらった。
張飛は泥のついた手で最後の杭を運び、「次はこの道を商人が通るといいな」と言った。
あれほど戦を好むように見えた男が、戦の後の道を気にしている。
その変化が俺には嬉しかった。
峠の道標は敵が立てたものも残っていた。
俺は村人と一緒に正しい道を刻み直した。
兵のための道と、暮らす人のための道は同じではない。
張飛はその違いを黙って聞いていた。
村の長老が礼に干した梨を持ってきた。
張飛は一つ齧り、兵に分けた。
俺は梨を薄く切って乾かせば携行食になると考え、作り方を教わった。
戦場で得た知恵がまた一つ増えた。
負傷した兵の足を洗う湯が足りず、炊事係が困っていた。
俺は鍋をもう一つ火にかけ、夜番の交代時間をずらした。
勝った日の夜にも仕事は終わらない。
城門の前で待つ間、俺は降伏した兵の手を見た。
槍を握っていた指には深い豆ができていた。
勝者と敗者を分ける旗は違っても、働いてきた手の形は同じだった。




