第八十六章:赤壁の夜、孔明の合図で曹操軍の船列が乱れた
戦いが始まったのは、川面が薄い霧に包まれたころだった。
敵の大艦隊は対岸から見ても圧倒的で、旗の数だけでこちらの兵を黙らせた。
だが孔明は落ち着いていた。
「周瑜殿、予定通りに」
周瑜が合図を送り、呉の船が動き始める。
龐統は敵の先鋒が向きを変えたのを見て、静かに笑った。
「曹操は、こちらの小さな動きに大きく答えてくれました」
俺は後方の連絡所で報告を受けていた。
火薬はすでに配備されているが、使うのは訓練を受けた担当者だけだ。
遠くで轟音が響き、水面に光が走る。
兵の一人が身をすくめた。
俺も肩を震わせたが、すぐに札を取り直した。
「味方の舟は」「負傷者は」「水と食料は足りるか」
戦場の音に飲まれず、必要な問いを続けることが俺の仕事だった。
勝利を知った村人が、炊事場へ山菜を持ってきた。
俺は礼を言い、毒草が混じらぬよう土地の者に確認してもらった。
食料が増えたからといって、何でも鍋に入れてよいわけではない。
兵の一人が「勝った日の飯はうまい」と笑った。
俺は「明日もそう言えるようにしよう」と返した。
孔明は火薬の轟音そのものより、敵船が反応して進路を変える瞬間を狙っていた。
龐統が事前に読み切った通り、曹操軍の指揮官たちは互いの船を守ろうとして、かえって狭い水域に集まった。
そこへ周瑜の水軍が側面から圧力をかける。
関羽の部隊は岸に近づく敵兵を押し返し、張飛は敵の上陸部隊を一歩も進ませなかった。
敵の数が多いほど、命令が届くまでの時間が長くなる。
戦況がこちらに傾き始めた時、伝令が駆け込んできた。
「第三の補給舟が遅れています」
俺は胸が冷えた。
兵糧を積んだ舟だ。
だが記録台帳ると、近くの岸に予備がある。
俺は予備を先に送り、遅れた舟の捜索を命じた。
孔明が予備を残した意味を、こんな形で実感するとは思わなかった。
勝利とは、予定が崩れても立て直せることなのだ。
夜の川は思った以上に暗かった。
先行する呉の小舟が合図の灯を隠し、後ろの舟が進路を失った。
俺は甲板で声を張り上げたが、水音に消される。
船頭が俺の袖を引いた。
「大声より、決めた合図を」
俺は我に返り、太鼓を二つ打たせた。
後列が止まり、舟同士の距離が戻る。
戦場で一番怖いのは敵ではなく、味方が互いの意図を失う瞬間かもしれない。
孔明の指示で、前衛は敵の船列の外側へ回り込んだ。
龐統が仕込んだ偽の伝令に曹操軍の一部が動き、密集していた船の間に隙間ができる。
周瑜はその一瞬を逃さず、呉の熟練船頭に進撃を命じた。
火の手が上がると、川面は赤く照らされた。
だが炎の向こうには、逃げ場を探す兵の叫びもある。
俺は勝利の歓声に加わる前に、救助用の舟を動かすよう頼んだ。
負傷兵を載せた舟が戻ってきたとき、治療係は人数を数えきれなかった。
敵味方を分ける余裕もない。
俺は荷を下ろした舟の底へ藁を敷き、火傷した者に清潔な布を渡した。
水を求める兵には、飲める状態の水を少しずつ配る。
関羽が戻ると、船首に血が付いていた。
「敵の将を逃した」と言った彼に、俺は「この人たちは戻りました」と答えた。
関羽は救助舟を見つめ、静かに頷いた。
夜明けまでの時間が妙に長かった。
負傷者を運んだ舟の船頭が、折れた櫂を握りしめていた。
新しい櫂を渡すと、彼は首を振った。
仲間がその櫂を使っていたのだという。
俺は何も言えず、舟の縁に腰掛けた。
やがて船頭は自分から立ち上がり、次の救助に向かうと言った。
俺は彼の名を帳面に記した。
戦果の数とは別の頁に。
夜半、曹操軍の中央から混乱が広がった。
見張りは「敵の旗が逆方向へ動いています」と叫んだ。
龐統は「退く船と進む船が互いを邪魔しています」と説明した。
周瑜はその機を逃さず、呉の精鋭を前へ進めた。
孔明は追撃の範囲を限定し、「岸の村へ戦を広げてはなりません」と命じた。
敵の大軍を前に、こちらが戦場の形を決めている。
その事実に俺は息を呑んだ。
明け方、最初の勝報が届いた。
曹操軍の先鋒は崩れ、主力の一部が退却を始めたという。
張飛が泥だらけで戻り、「あいつら、数だけは多かったぞ」と笑った。
俺は温かい汁を渡した。
張飛は一息で飲み干しかけ、熱さに顔をしかめた。
周囲の兵が笑う。
その笑い声を聞いて、ようやく俺も肩の力を抜いた。
火の手が上がる直前、俺が作った防水布の袋が別の役に立った。
濡らしておいた袋を水兵が頭から被り、煙の濃い甲板を這って負傷者を運び出したのだ。
本来は乾いた食料を雨から守るための品だった。
船大工の若者が咳き込みながら戻り、「飯の袋で命が助かった」と笑った。
俺は笑い返せなかった。
袋の縫い目を確かめながら、次はもっと息がしやすい形に直そうと心に決めた。
舵を離した水兵の指は、握った形のまま固まっていた。
船頭が一本ずつ指を開き、湯飲みを持たせた。
赤壁の船列攪乱で見た光景がまだ頭から離れないのだろう。
俺は負傷者用の防水袋を脇に置き、温かい飲み物を差し出した。
何か言うべきか迷ったが、相手が自分から話し始めるまで待つことにした。
暗闇で舵を握る水兵が、負傷した仲間の声を聞いて手を離しかけた。
俺は防水袋を浮き具に変え、船縁から投げた。
「舵を離すな。俺が引き上げる」
水兵は涙をこらえ、船を浅瀬へ向けた。
朝の点検で、負傷者用の防水袋の扱いをめぐって小さな言い争いが起きた。
暗闇で舵を握る水兵は赤壁の船列攪乱の経験から譲らず、別の兵も自分の理屈を持っていた。
俺が負傷者用の防水袋の数を数えていると、暗闇で舵を握る水兵が戻ってきた。
赤壁の船列攪乱では大将の号令より、足元の泥や手の冷たさが厄介だったという。
勝利の直後、捕らえた曹操軍の兵が治療所へ運ばれた。
若い治療係が戸惑って俺を見た。
俺は「先に傷の重い者を診てください」と答えた。
敵味方を分けていては、目の前の命を救えない。
関羽はその判断を聞き、静かに頷いた。
張飛も文句を言わず、必要な水を運んでくれた。
曹操軍の兵は何度も礼を言ったが、俺は名前を尋ねて記録するだけにした。
今日の敵が、明日は故郷へ帰る父親かもしれない。
勝利とは、その帰る道まで奪うことではないはずだ。
孔明は勝利を祝う前に、残った敵船の動きを確かめていた。
龐統は曹操の退路を指し、「まだ本当の決断はこれからです」と言う。
周瑜は剣を収め、「赤壁の名は今夜で変わる」と呟いた。
俺は朝日を受ける川面を見た。
昨夜まで無数に見えた敵の灯が、今はまばらになっている。
だが俺たちの仕事はまだ終わっていなかった。




