第八十五章:赤壁決戦の前夜、孔明は火薬を半分しか求めなかった
赤壁の決戦が近づいた夜、孔明から火薬の使用予定が届いた。
俺は数字を見て首を傾げた。
用意した量の半分にも満たない。
「足りないのではありませんか」
孔明は静かに首を振った。
「多く使うことと、うまく使うことは違います」
龐統は横から「敵には、我々がどれほど持っているか分からぬ方が都合がよい」と笑った。
俺は二人の考えを信じ、残りを厳重な予備として管理することにした。
俺の担当は兵器の性能を競うことではなかった。
安全な保管、運搬の責任者、事故が起きた際の避難手順を明確にする。
火薬はすでに実戦で役立っているが、強力だからこそ人を油断させる。
職人の一人が「早く使いたい」と言ったので、俺は「明日もこの工房へ帰ってこられるように使おう」と答えた。
彼は少し照れたように頷いた。
連絡所の若い兵が、一度だけ敵船の数を読み違えた。
彼は叱責を覚悟していたが、俺は報告の札を見直した。
暗い場所で似た文字が並び、間違えやすかったのだ。
札の書き方を変えると、次の報告は正確になった。
龐統は「人を責める前に、誤る道を塞ぐ。あなたらしい策です」と言った。
炊事場では決戦前の献立を決めた。
食べ慣れないご馳走より、腹に収まりやすい麦と豆の飯、塩気を整えた汁、少量の干し魚。
張飛は「肉を山ほど食わせればいい」と言ったが、俺は笑って断った。
「急に食べすぎたら、動けなくなる人もいます」
張飛は大声で笑い、自分の分の干し魚を若い兵に分けた。
彼なりの励まし方なのだろう。
周瑜の水軍では、舟ごとに救助の担当を決めていた。
俺は担架と浮き具を配り、負傷者を受け入れる岸の小屋を確認した。
そこでは呉と劉備軍の治療係が一緒に働く。
最初は薬草の呼び名が違って困ったが、互いに実物を見せ合い、共通の札を作った。
小さな共同作業が、同盟を言葉だけのものではなくしていく。
決戦前夜、孔明は火薬の半分を後方へ戻すと言い出した。
武将たちがざわめく。
張飛は「今こそ全部使うときではないのか」と詰め寄った。
孔明は灯の下で二枚の図を並べた。
一枚は火薬を集中させた船団、もう一枚は小分けにして予備を残した船団。
「一度の風向きの変化で全てを失えば、次の手がありません」
龐統が続ける。
「敵は我らが火を放つと思い込んでいる。その思い込みだけでも、船の動きを縛れます」
俺は兵器庫で封印札を数えた。
ひと箱だけ、紐が濡れて緩んでいた。
係の若者は顔を青くしたが、叱る前に原因を探した。
甲板の排水口が詰まり、雨水が箱の下へ回っていたのだ。
火薬の中身を確認し、危険なものは隔離する。
排水口の泥を掻き出す作業に、趙雲が黙って加わった。
「将軍がそんなことを」と若者が慌てると、趙雲は「ここで働く者も同じ軍の仲間だ」と答えた。
若者の肩から力が抜けた。
夜食は麦の粥に干し魚を少しほぐしたものだった。
兵は黙って椀を受け取り、船の上に座る。
俺はひとりずつ顔を見た。
勇ましい言葉を求める者もいれば、故郷の話をしたい者もいる。
関羽は剣の手入れを終えると、「明日の朝も、この椀を配れるようにしておけ」と言った。
俺は「はい」と答えた。
勝つために作った兵器を、帰って食べるために使う。
その順番だけは間違えたくなかった。
夜更け、見張りの少年が故郷へ出す手紙を俺に見せた。
明日は勝つ、と書いてある。
俺はその一行を消させなかった。
ただ、帰ったら何を食べたいかも書いてみろと言った。
少年は少し考え、母親が作る粟の団子と書き足した。
隣の兵は父親と釣りに行きたいと言い、別の兵は妹に木の櫛を買うと笑った。
戦場の夜に必要なのは、敵を倒す理由だけではない。
帰る理由を忘れないことだった。
夕暮れ、劉備は俺を呼んだ。
「怖いか」
俺は正直に「怖いです」と答えた。
大軍のぶつかる川を前に、怖くないはずがない。
「それでも、お前はいつも通り書付台帳けるのだな」
俺は「怖いからこそ、忘れ物をなくしたいんです」と言った。
劉備は少し笑い、「その怖さは、兵を守る」と答えた。
胸の奥にあった固いものが、少しだけほどけた。
夜、孔明と龐統と周瑜は最後の確認を行った。
誰がいつ動くか。
味方の舟がどこで待つか。
合図が届かなかったらどうするか。
孔明は一つずつ問い、龐統は敵が予想外の動きをした場合を挙げ、周瑜は水軍の現実に照らして修正した。
俺は三人の議論を聞きながら、現場に伝わる言葉へ置き換えて書き留めた。
複雑な策も、兵には迷わず実行できる指示でなければならない。
俺が火薬の防湿箱の数を数えていると、夜番の船大工が戻ってきた。
赤壁決戦前夜では大将の号令より、足元の泥や手の冷たさが厄介だったという。
夜番の工兵は火薬箱を抱えて震えていた。
「濡らしたら、皆の命が危ない」
俺は箱を受け取り、覆いの縫い目を確かめた。
数量をそろえることばかり考えていた自分が恥ずかしかった。
まず守るべきは、箱を運ぶ人間だった。
その晩、俺は夜番の船大工と火を囲んだ。
赤壁決戦前夜で怖かったことを聞くと、最初は誰も口を開かなかった。
やがて一人が火薬の防湿箱を指し、「これがあって助かった」と呟いた。
俺は大げさな返事をせず、次に備えて不足しているものを確かめた。
朝の点検で、火薬の防湿箱の扱いをめぐって小さな言い争いが起きた。
夜番の船大工は赤壁決戦前夜の経験から譲らず、別の兵も自分の理屈を持っていた。
その晩、俺は火薬の配分を一度間違えた。
予備を守ろうとして、敵船を止めるための合図筒まで減らしていたのだ。
船頭が気づき、作業は夜半までやり直しになった。
謝ると、彼は「明日、合図がなければ仲間が川へ突っ込む。眠いくらいで済むなら安い」と言った。
俺は自分の慎重さが別の危険を生むことを思い知った。
朝までに全船の合図を確かめ、船頭たちへ直接説明した。
大きな策の陰で、ひとつの合図が命を分ける。
戦いの最中、俺のところへ一人の船乗りが駆け込んだ。
友人の乗った舟が見えなくなったという。
俺は慌てる彼を座らせ、最後に確認された場所と時刻を聞いた。
連絡札を照合すると、舟は予定を変えて別の岸へ向かったことが分かった。
しばらくして無事の報告が届き、船乗りは泣き笑いになった。
俺は安堵すると同時に、知らせが遅れた理由を記録した。
孔明は「戦場で人を安心させるのも、大切な指揮です」と言った。
俺は首を振った。
ただ、無事なら早く知らせてほしい。
それだけだった。
深夜、川には霧が下り始めた。
遠くの敵船の灯が滲んで見える。
俺は炊事場の火を消し、残った鍋を洗う者たちに礼を言った。
鍋を洗う少年が「明日は怖いです」と漏らした。
俺が返事に迷っていると、隣の料理人が「怖くなけりゃ、味見を忘れる」と笑った。
少年はもう一度塩を確かめた。
俺も眠る前に、明日の朝食を作る薪が乾いているかだけは見届けた。




