第八十二章:周瑜は孔明の策を疑い、龐統は敵の船を数え始めた
周瑜との会見は、呉の軍船の上で開かれた。
水面に映る旗が揺れ、板の間から川の匂いが立ち上る。
周瑜は若々しく整った顔立ちで、こちらを迎える礼儀も完璧だった。
しかし目は鋭かった。
「劉備軍が火薬で陸戦を制したことは聞いている。水上でも同じように勝てると思うか」
孔明は「同じことをすれば負けます」と答えた。
周瑜は一瞬だけ眉を上げた。
俺は船上の実情を確かめた。
揺れる足場、濡れた綱、狭い炊事場。
船酔いで食事を取れない兵もいる。
火薬以前に、陸での常識を持ち込めない場所だった。
俺が船酔いした兵に温かい薄粥を渡していると、周瑜の副官が近づいた。
「軍師殿は策を論じているのに、あなたは飯ですか」
俺は「飯が入らない兵には、どんな策も運べません」と答えた。
副官は何も言わず、粥を運ぶのを手伝ってくれた。
周瑜の副官が俺のところへ来て、呉軍の水汲み場を見せてくれた。
川の水をそのまま飲ませず、置き場と調理の場所を分ける工夫があった。
俺たちは互いの方法を比べ、改善できる点を見つけた。
孔明が「知恵は一人の頭に閉じ込めるほど弱くなる」と言った。
周瑜は「ならば、勝った後も教え合える関係でいたい」と答えた。
孔明は川風の向きと岸の形を確かめ、龐統は敵船の間隔を調べていた。
二人は同じ地図を見ながら、違うところに印をつける。
孔明が「風は味方にも敵にも吹きます」と言えば、龐統は「敵が風を恐れて船を動かせば、その判断もまた利用できます」と返す。
周瑜は二人を見比べ、「臥龍と鳳雛が同じ陣にいるとは、曹操も運がない」と苦笑した。
会議では呉軍の指揮系統が問題になった。
劉備軍が勝手に動けば、味方同士の船が進路を塞ぐ。
俺は船ごとの合図と連絡時刻を統一するよう提案した。
もちろん細かな戦術は軍師たちの領分だ。
俺が整えるのは、伝令が迷わず届く仕組みだった。
周瑜は最初、よそ者の提案に渋い顔をしたが、試験で連絡の遅れが減るとすぐ採用した。
「役に立つなら、誰の案でもよい」
その言葉に、この人も本物の指揮官だと思った。
周瑜が最初に試したのは、孔明の知恵ではなく俺たちの報告の正確さだった。
「曹操の船は何隻だ」
呉の斥候が数を告げ、龐統は首を振る。
「数えたのは帆でしょう。岸辺に隠した小舟が入っておらぬ」
周瑜の目が鋭くなった。
龐統は言い争わず、地図に二つの浅瀬を描いた。
「ここを通る荷船を数えれば、敵が何日動けるか分かります」
周瑜はすぐに別の斥候を出した。
翌日、報告された荷の量は最初の見積もりより多かった。
龐統は得意げに笑わず、「だからこそ、正面から競うのは愚かです」と言った。
俺には別の試験が待っていた。
呉の船大工が、防水布の縫い目に水を掛けてみせたのだ。
俺の工房で作った覆いは、平らな地面では水を弾く。
だが船の揺れで布が引っ張られると、針穴から水が滲んだ。
「これでは大事な荷が湿る」
悔しかったが、その通りだった。
俺は布を二重に重ねる位置を変え、縫い目を荷の上ではなく側面へ逃がした。
船大工は黙ってもう一度水を掛け、今度は頷いた。
改良案の横に、彼の名も記した。
その夜、周瑜は孔明に尋ねた。
「もし風が読んだ通りに吹かなければどうする」
孔明は「風を待つ策なら、風が来ぬときの策も必要です」と答えた。
龐統が別の航路を示し、俺は舟ごとの食料残量を伝えた。
周瑜は三人の顔を順に見た。
「一人の奇才に命運を預けるのではないのだな」
孔明は静かに答えた。
「勝ちを一人の手柄にしないことが、負けを減らします」
夕方、俺は船大工と一緒に取り外しやすい担架を試した。
狭い通路でも曲がれるようにし、陸へ上がれば荷車に載せ替えられる。
若い兵が「戦う前から負傷者のことを考えるのか」と尋ねた。
俺は「勝つつもりだからこそ、帰る準備をする」と答えた。
周瑜はその会話を聞いていたらしい。
後で孔明に「お前たちの軍は不思議だ。勝利を語る時、必ず帰還の話をする」と言ったという。
夜、三人の軍師が地図を囲んだ。
周瑜は水軍の強みを、孔明は火薬を使う際の制約を、龐統は曹操の自尊心を語った。
互いに譲らぬ議論が続き、俺はその横で補給線を引き直した。
やがて周瑜が笑い出した。
「なるほど。敵を焼くことばかり考えていた私の方が、少し急いでいたかもしれん」
孔明は「勝つために必要なのは、敵に選ばせることです」と静かに答えた。
夕方、潮を読む船頭から声を掛けられた。
周瑜との軍議の最中には言えなかった話があるらしい。
俺は腰を下ろし、相手が話し終えるまで口を挟まなかった。
そのあと船列の目印の置き場所を変えた。
ほんの小さな手直しだったが、次の当番の顔が少し明るくなった。
周瑜は船の上で俺の足元を指さした。
「そこに立てば、揺れたとき落ちる」
龐統が笑いかけたが、次の波で本当に俺はよろめいた。
周瑜は無言で腕をつかんだ。
俺は軍師たちの知恵を競う前に、船乗りの忠告を聞くべきだと悟った。
「これを見てください」と俺は船列の目印を示した。
周瑜との将たちの協議で使うつもりだったが、潮を読む船頭には別の使い道があった。
俺が驚くと、相手は当然のことのように手順を説明した。
日が傾くころ、潮を読む船頭が船列の目印を運んできた。
周瑜との作戦会議が終わったあとも仕事は残る。
俺たちは互いに手を貸し、壊れたものとまだ使えるものを分けた。
会見の翌日、周瑜は俺を小舟に乗せて川の流れを見せた。
岸からは穏やかに見えた水面にも、場所によって異なる速さがあった。
「地図には描けぬ道がある」と周瑜は言った。
俺は頷き、知識があるだけで現場を知ったつもりになっていた自分を恥じた。
孔明は川の風を、龐統は船を動かす人間の心を、周瑜は水そのものを知っている。
俺はその三人が必要な時に必要な物資を得られるよう、岸の倉庫を一つずつ確かめる。
自分の役割がはっきりすると、不思議と恐怖が小さくなった。
会議を終えて甲板へ出ると、川の向こうに曹操軍の灯が広がっていた。
龐統は灯の並びを見つめ、「あれほどの船があれば、動かすだけでも大仕事だ」と呟く。
俺は補給船の位置を思い浮かべた。
大軍には必ず腹がある。
船にも同じことが言える。
周瑜の水軍、孔明の火薬、龐統の人心を読む力。
それらが一つになれば、史実とは違う赤壁が生まれる。




