第八十章:曹操二十万が南下した日、孔明は川の流れを調べていた
曹操が二十万の兵を南へ向けたという知らせは、朝食の湯気が立つころ届いた。
伝令の靴には乾いた泥が幾重にもこびりつき、馬は息を荒げている。
俺は報告を聞いて思わず匙を止めた。
十万の軍勢を退けたばかりだというのに、曹操はさらに兵を集めてきたのだ。
張飛は「何度来ても同じだ」と豪快に笑った。
だが孔明は笑わなかった。
「陸で敗れた曹操は、水を選びました。前の勝ち方を繰り返す者が、次は敗れます」
渡し場で水樽が一つ転がり、桟橋から川へ落ちた。
陸から来た歩兵が飛び込もうとしたのを、船頭が襟をつかんで止めた。
「樽のために命を捨てるな」
俺は樽の固定法を教えるつもりで来たのに、まず川での命の守り方を教わった。
船頭は俺の作った水樽の留め具を見て笑った。
「川が荒れたら、これじゃ樽が踊る」
悔しくて言い返しかけたが、船頭は結び目を一つ変えるだけで樽を固定した。
陸で通じた工夫が、川でも通じるとは限らない。
作戦会議の卓には長江沿いの地図が広げられた。
関羽は渡河地点を示し、龐統は商人の通る港を指でなぞる。
孔明は俺に、火薬の保管記録を見せてほしいと言った。
すでに何度も実戦に使った火薬だ。
だが川辺では湿気が増し、舟は揺れ、火の扱いも陸とは違う。
「新しいものを作る前に、今あるものを失わず運べるか確かめたいのです」
俺はその言葉に頷いた。
天才軍師が最初に問うのが派手な威力ではなく運搬なのが、少し嬉しかった。
夜が明けると、俺は水軍の兵を三組に分けて意見を聞いた。
舟に慣れた者、初めて乗る者、負傷から復帰した者。
それぞれ必要な道具が違う。
船酔いの兵は食事を少しずつ分けた方がよく、熟練の船乗りは夜の見張りに温かい飲み物を求めた。
俺は一律に決めた献立を見直した。
孔明は「兵を同じように扱うことと、公平に扱うことは違うのですね」と言った。
俺はその言葉を帳簿の余白に書いた。
その日の昼、俺は水軍に配る食事を試作した。
舟の上では大鍋をいつでも使えるわけではない。
麦を蒸して乾かした携行食、豆を煮て潰した保存しやすい団子、塩と干し菜を合わせた汁の素。
どれも豪華ではないが、水が確保できれば短い時間で温かい食事にできる。
炊事係の老人は団子を噛み、「歯の弱い者には硬すぎる」と言った。
俺はすぐに配合を変えた。
戦の準備は、まず実際に食べる人の声を聞くことから始まる。
船に積む水樽を持ち上げた途端、底から水が漏れた。
川を知らない歩兵が慌てて指を当てる。
「陸では揺れなかったんです」
船頭が樽を横に寝かせ、継ぎ目を示した。
「舟は前後だけじゃなく左右にも揺れる。樽を立てて縛るな」
歩兵は悔しそうに唇を噛んだが、自分から縄を持ち直した。
港の工房では船大工と荷車職人を同じ机につかせた。
互いに仕事の言葉が違い、最初は会話が噛み合わない。
それでも板の継ぎ目を水で試し、木箱の留め具を揺らして確かめるうちに、互いの工夫が役立つと分かってきた。
俺は火薬の危険な取り扱いを熟練者だけに任せ、運搬箱には中身と担当者を明記した。
事故を隠さず報告する約束も取り付ける。
孔明の策がどれほど鮮やかでも、現場が壊れれば一瞬で終わる。
午後の試験航行で、固定し直した樽は動かなかった。
だが若い歩兵が船縁を越えそうになり、船頭が腕をつかんだ。
「樽ばかり見て、自分の足を忘れるな!」
歩兵は真っ赤になって礼を言った。
俺は樽の配置だけでなく、人が手を掛ける縄の位置も変えた。
船頭は一度引いて確かめ、「これなら夜でもつかめる」と頷いた。
夕方、劉備は港を訪れ、荷を積む兵と同じ板の上を歩いた。
「二十万か」と呟く声には疲れがあった。
俺は「こちらには、彼らより速く食事を届ける仕組みがあります」と答えた。
劉備は驚いたように俺を見る。
「お前はいつも敵の数を数えないな」
数えないのではない。
怖いからこそ、数以外に勝てるものを探すのだ。
劉備が帰る前に、あの歩兵が駆け寄ってきた。
「樽を縛る縄で、船縁に手掛かりを作れます。夜の見張りにも使えます」
俺は思わず船頭を見た。
船頭はにやりと笑う。
「陸の兵だって、川で覚えることはある」
失敗した歩兵が、今度は仲間の命を守る工夫を持ってきたのだ。
夜、龐統は川辺の小さな宿で酒を一杯だけ口にした。
「曹操は大軍を誇る。しかし大軍には大軍の腹がある」
孔明は扇を閉じ、「敵に川を渡らせるか、川の上に留めるか。それを我々が選びます」と言った。
俺は二人の間に補給表を置いた。
そこには兵糧の日数だけでなく、飲み水、薪、船酔いした兵の休養場所まで書いてある。
龐統は笑った。
「やはりあなたの記録は、戦場の地図より恐ろしい」
翌日の訓練では、陸の兵が船へ乗り移るだけで時間がかかった。
武勇で名高い兵も、揺れる板の上では足がすくむ。
張飛は最初笑っていたが、自分で乗ってみると眉をしかめた。
「なるほど、これは馬とは違う」
俺は船乗りに頼み、短い時間から慣れる訓練を組んでもらった。
失敗して水へ落ちた兵を笑わず、引き上げて次の機会を与える。
関羽はその様子を見て「恥をかかせず学ばせるのも、将の務めだ」と言った。
孔明は訓練の進み具合を尋ね、できることとできないことを地図の横に書き込んだ。
彼の策が机上の空論にならない理由を、俺はまた一つ知った。
船上の試食では、干し魚を細かくほぐした粥が思いのほか好評だった。
だが船酔いした若い漕ぎ手は、匂いだけで顔を背けた。
俺は生姜を少し入れた薄い汁と乾いた粥を別に用意した。
周瑜の水兵が「陸の軍師は船で何を食べるかも知らぬと思っていた」と笑う。
俺は素直に「知らないから教えてほしい」と答えた。
赤壁で勝つには、まず川を知る者の声を聞かなければならない。
その晩、曹操軍の先遣船が遠くの川面に灯を並べた。
数え切れない火が、まるで新しい星座のように揺れている。
見張りの若者は顔を青くした。
俺は彼に温かい汁を渡した。
「明日の朝も、これを作る」
彼は椀を両手で包み、ようやく笑った。
敵が二十万でも、俺たちが守るべき朝は一つずつやって来る。
日が傾くころ、歩兵と船頭が並んで船縁の縄を引いていた。
昼には叱られていた歩兵が、今は新入りに結び目を教えている。
俺は二人の手を見て、明日の試験には自分も最初から乗ろうと決めた。
川を知らないのは、俺も同じだった。
夜が明けると、港の試験舟で新しい食事を配った。
最初の一椀を受け取った若い漕ぎ手は、顔をしかめた。
「温かいのはありがたい。でも揺れるとこぼれる」
俺は深さのある木椀を作らせ、船縁に掛ける輪を付けた。
別の漕ぎ手は「これなら櫂を置く時間が短い」と笑った。
一方、火薬を入れる箱は水をかぶっても中身が濡れないか、空箱で繰り返し試した。
孔明はその様子を見て、「赤壁の勝敗は風だけでは決まりませんね」と言った。
龐統は「兵が食べられ、道具が働き、命令が届く。その三つが揃って初めて風が味方する」と答えた。
川の向こうには、まだ見ぬ曹操の船影が広がっていた。




