第六十九章:孔明と龐統は、十万の曹操軍を迎え撃つ策を完成させた
俺は帳簿、孔明は地図。
そう言って笑えたのは、戦が始まる前のほんの一刻だけだった。
実際には、紙の上の数字も線も、兵たちが歩き出せばすぐに変わる。
決戦前夜、作戦を詰める灯はなかなか消えなかった。
地図の上には川と丘、三本の街道、そして十万の敵を示す小石が並んでいる。
孔明は石を動かさず、龐統も珍しく口を閉ざしていた。
「策が決まらないのですか」と俺が尋ねると、孔明は首を振った。
「策はあります。ただし、兵がその通りに動けるかどうかは、別の話です」
俺は荷車の一覧を広げた。
使える車、修理中の車、馬の状態、井戸の位置。
数字は冷たいが、そこには人と馬の疲れが詰まっていた。
龐統は敵の進路を指した。
「曹操は三軍を合流させ、我らを正面から押し潰すつもりです。こちらは合流を止めるのではなく、合流した後に動けなくする」
張飛が眉を上げた。
「十万を集めさせるのか」
「集めた軍は、急には向きを変えられません」
孔明が続けた。
「我らの二万は、狭い場所を選べます。敵の十万は、食料と水のある場所を選ばざるを得ない」
関羽は地図の川辺を見た。
「敵をそこへ誘うのだな」
孔明は頷いた。
ただし、どの道からでも退けるように、味方の退路を二つ確保した。
俺は一つだけ異議を唱えた。
「その場所は水が少ない。こちらも長くいれば困ります」
龐統は笑った。
「だから長くいない」
「短く終わらなかったら?」
孔明はすぐ答えなかった。
しばらく考え、「その場合は勝利を捨て、兵を退かせます」と言った。
張飛が声を上げかけたが、劉備が先に頷いた。
「民を守るための軍だ。勝つために全員を失ってはならぬ」
その言葉を聞いて、俺はようやく息をついた。
軍師がどれほど優秀でも、失敗したときの道がなければ、兵は賭けの駒になる。
工房では最後の点検が続いていた。
火薬の箱には担当者の印を押し、保管と運搬の責任者を別にした。
湿気を避ける覆いを確かめ、使う場面は孔明の合図がある場合に限った。
趙雲は俺に尋ねた。
「火薬が使えなくなったら、どうする」
「旗と太鼓で伝えます。最悪、伝令が走ります」
「ならば、その伝令を守るのは私の役目だ」
彼は白馬の首を撫でた。
英雄の仕事は、敵将を討つことだけではない。
一本の命令を無事に届けることが、戦場全体を救う日もある。
出陣前夜、俺は各隊の食料袋をもう一度確認した。
干し飯は二日分、塩は小袋に分け、飲み水は隊ごとに予備を持たせる。
敵の十万という数字に比べれば、ひどく小さな準備に見える。
「怖いですか」と趙雲が聞いた。
「怖いですよ。帳面いた数が、一つでも間違っていたらと思うと」
「私も怖い。馬が橋で足を滑らせれば、後ろの者まで落ちます」
勇将の口から聞いた言葉に、少しだけ救われた。
関羽は刃を確かめ、張飛は兵と最後の合図を練習していた。
孔明と龐統は互いの地図を見比べ、予想が外れた場合の退路を三つ書き込む。
誰も勝利を当然だとは思っていない。
俺は炊事場へ戻り、夜明けに配る麦飯を包んだ。
老女が鍋をかき回しながら言った。
「あんた、戦の前はいつも食べないね」
「食欲がなくて」
「食わせる側が倒れたら、誰が食わせるんだい」
差し出された椀を受け取る。
温かい汁が喉を通ると、ようやく指先の震えが収まった。
夜が明けると、出発の太鼓が鳴った。
兵たちはそれぞれの役目へ向かう。
俺は最後の荷車が門を出るまで見送り、帳面を閉じた。
そこに書かれているのは勝利の数ではない。
全員が帰るために、今できることの一覧だった。
炊事場では、夜食を作っていた。
豆を煮た汁に刻んだ野菜を入れ、麦飯を少しずつ配る。
戦の前に食べ過ぎれば動けない。
少なすぎれば朝まで持たない。
張飛は椀を見て不満そうにした。
「もっと盛れ」
老女が睨み返した。
「明日の分を食う気かい」
張飛は黙って椀を受け取った。
関羽が笑い、兵たちも肩の力を抜いた。
俺は、こんな夜があと何度あるのだろうと思った。
戦いが終われば、誰も夜中に兵糧の数を数えなくて済むのだろうか。
孔明が示した地図には、矢印が少なかった。
十万の敵を迎え撃つというのに、派手な包囲線も、火薬を置く印もない。
「これだけですか」と俺が聞くと、龐統が笑った。
「地図に描けるものは、敵にも読めます」
敵の進路には三つの候補があった。
川沿いの広い道、丘を越える近道、南の細い街道。
どこへ来ても、劉備軍は二万しか動かせない。
関羽は川沿いを指した。
「ここなら騎兵を使える」
張飛は丘を叩いた。
「ここなら俺が止める」
趙雲は南の道を見た。
「避難民が通っています。ここを戦場にしてはなりません」
孔明は頷いた。
「だから南には誘いません」
龐統が小石を一つ置く。
「敵にとって、南へ来る理由を消しましょう。川沿いへ進む方が得だと考えさせるのです」
俺はそこで、補給車の動かし方を変えるよう頼まれた。
敵の斥候に見える道には空車を走らせ、実際の食料は林を抜ける小道で運ぶ。
ただし村人の畑を踏まないことが条件だ。
「その条件で間に合いますか」
「間に合わせるために、戦う日を選ぶのです」と孔明は言った。
夜、伝令の少年が地図を見て青ざめた。
敵の大軍が自分の村の近くを通ると知ったからだ。
趙雲は少年の肩に手を置いた。
「村へ知らせる役を任せたい。危険だが、誰より道を知っているだろう」
少年は頷いたが、唇が震えていた。
俺は水袋と干し飯を渡した。
彼が無事に帰るまで、何度も袋の紐を確かめた。
その夜、龐統が孔明に尋ねた。
「敵が想定と違う道を選んだら?」
「退きます」
「勝てる機会を逃しても?」
「民を巻き込む道で勝つなら、それは我々の勝利ではありません」
二人の間に沈黙が落ちた。
やがて龐統は笑みを消し、「それでこそ、共に策を立てる甲斐がある」と答えた。
深夜、龐統が一人で倉庫へ来た。
「あなたに頼みがある」
「何でしょう」
「明日の朝、敵の前衛が動いたと聞いても、配給を止めないでください」
「戦が始まるのに?」
「兵が朝食を取る光景を、敵の斥候に見せたいのです。慌てていない軍は、相手を慌てさせる」
俺は呆れた。
「人の朝飯まで策に使うんですか」
「使えるものは使います。ただし、ちゃんと食べてもらいますよ」
龐統は笑ったが、その目には眠れぬ夜の疲れがあった。
夜明け前、孔明が最後の命令を読み上げた。
関羽は東の渡し、張飛は西の丘、趙雲は伝令路。
龐統は敵がどの情報を信じるかを監視し、孔明は全軍の動きを統べる。
俺は補給隊に、勝利の報告が来る前から負傷者用の湯を沸かすよう命じた。
勝つか負けるかは分からない。
だが、傷つく者が出ることだけは分かっていた。
朝日が昇ると、遠くの街道が土煙で霞んだ。
曹操軍の先鋒が動き始めたのだ。
後方の十万はまだ隊列を整えている。
劉備は馬上から兵を見渡し、「生きて帰れ」とだけ言った。
関羽は頷き、張飛は槍を掲げ、趙雲は伝令の少年に水袋を渡した。
孔明は扇を閉じた。
「ここから先は、敵の選択を見ましょう」
龐統は地図を巻き、「選ぶ道は、もう用意してあります」と答えた。
俺は炊事場の煙を見上げた。
十万を迎え撃つ策の最初の合図は、太鼓でも火薬でもない。
兵たちが朝飯を食べ終え、椀を置く音だった。




