第六十六章:龐統は一兵も失わず、曹操軍の城を降伏させた
城門の上から、やせた子供がこちらを見ていた。
曹操軍の守る小城は、周囲の田畑を失い、三週間も補給が届いていない。
城壁は高く、力攻めすれば味方に多くの死者が出る。
だが門の内側にいるのは兵だけではなかった。
「攻めません」と龐統は言った。
張飛が目を剥く。
「城を取れと言われたのだぞ」
「取ります。門を開けてもらいます」
龐統は俺に向き直った。
「炊事場を城から見える場所に作れますか」
俺たちは城壁の外に大鍋を据えた。
豆と麦を煮て、刻んだ青菜を入れる。
匂いが風に乗って城へ流れた。
張飛は「これでは敵に飯を見せびらかしているだけだ」とぼやいた。
「その通りです」と龐統。
「何だと?」
「ただし、見せるだけでは終わりません」
城門の前に立て札を置いた。
武器を捨てて出てくる者には食事を与える。
家族を連れていてもよい。
守備兵の身柄は劉備が保証する。
最初に出てきたのは兵ではなく、年老いた女だった。
城の裏門から、孫の手を引いて現れた。
彼女は椀を見ても手を出さず、「城に残る息子にも食べさせてほしい」と言った。
俺は龐統を見た。
彼は頷き、食料の一部を城内へ運ぶ使者を立てた。
関羽が眉をひそめる。
「敵に兵糧を送るのか」
「城を守る兵が飢えていれば、降伏を決めるのは難しくなります。腹が満ちて初めて、明日のことを考えられる」
龐統の声は静かだった。
城内では守将が反発した。
劉備の飯など毒に違いない、と。
しかし使者は城壁の上で同じ鍋の汁をすすり、守将にも差し出した。
その夜、城内の兵がひそかに使者を訪ねてきた。
彼は城門の鍵を渡そうとしたが、龐統は受け取らなかった。
「裏切りで開いた門は、次の裏切りを呼びます。守将自身に決めてもらいなさい」
俺は驚いた。
急げば城は落ちるのに、彼は急がなかった。
開城の夜が明けると、城内の倉を調べると、穀物は住民の数に比べて明らかに足りなかった。
城主が隠したのではない。
前年の長雨で収穫が落ち、さらに兵が徴発していたのだ。
「降伏したのに、食わせてもらえないのか」と住民が怒鳴った。
俺はすぐには答えられなかった。
劉備軍の食料にも限りがある。
ここで全部を配れば、別の村が飢える。
龐統は城の長老を集め、倉の中身を目の前で数えさせた。
隠さず、足りないことも告げる。
そして三日分を緊急配給し、その間に周囲の村から買い付ける案を示した。
「買うと言って、後で踏み倒すのではないか」と長老が尋ねた。
俺は軍の印を押した受領札を見せた。
「払えなければ、私たちの責任が残ります」
劉備はその札に自分の名を記した。
長老たちは顔を見合わせ、ようやく頷いた。
張飛は井戸の掃除を買って出た。
鎧を脱いで泥をかき出す大男に、子供たちが水をかけて笑う。
「戦場より手ごわいぞ」と張飛がぼやくと、龐統まで声を立てて笑った。
城が落ちたと聞けば、人は城門が開いた瞬間を思い浮かべるだろう。
だが俺には、次の朝に井戸の水が澄み、子供が粥を食べられたことの方が、本当の勝利に見えた。
翌日、龐統は守将に一通の書状を送った。
内容は降伏勧告だけではない。
城の井戸を調べ、病人を隔離し、備蓄を共同管理する案が書かれていた。
「こんなものまで」と俺が言うと、龐統は笑った。
「降伏した後に民が死んだら、誰が勝ったと言えますか」
俺は工房の職人に頼み、城内へ渡す水桶と簡単な濾し布を用意した。
濁りは取れても病気の原因がすべて消えるわけではない。
飲み水は煮沸するよう、書状に追記した。
城門が開いたあと、年老いた女が炊き出しの列から離れ、俺の袖を引いた。
「この子が、昨日から初めて泣くようになったんです」
腕に抱かれた幼子は大きな声で泣いていた。
女は笑いながら涙をこぼす。
「前は泣く力もなかった」
俺は返事ができず、粥の椀を差し出した。
龐統はその光景を見て、いつもの皮肉を言わなかった。
「城を取ったのではないな」と小さく言う。
「人が明日を迎える場所を取り戻したのだ」
城壁の上には兵だけでなく、腹を空かせた住民がいた。
包囲を続ければ、最初に倒れるのは彼らだ。
龐統は攻城具を見に行かず、城外の畑を歩いた。
「城主は穀倉を閉じている。住民が飢えれば、城門を開ける前に反乱が起きるでしょう」
「それを待つんですか」
「いいえ。待てば、勝っても町が壊れます」
俺たちは城門から弓の届かない場所に大釜を置き、粥を炊いた。
敵の兵が受け取りに来られるよう、武器を持たない者だけ通す道を作る。
最初に現れたのは、赤子を抱いた女だった。
城門の番兵は彼女を止めたが、女は振り返らなかった。
龐統は城主へ書簡を送った。
降伏すれば守備兵の命を保証し、穀倉を開いて住民に配る。
城主の財産は調べるが、家族を人質にはしない。
条件は細かく、曖昧な言葉を避けた。
返事はなかった。
代わりに夜、城壁から矢が飛んできた。
炊事係の少年の袖をかすめる。
張飛は怒って城門へ向かおうとした。
「今、攻めれば敵の望みどおりです」龐統が止めた。
「住民は我々を恐れる」
俺は少年の袖を縫い、次の朝には炊事場をさらに遠くへ移した。
食料を運ぶ道には盾を立てた。
攻めないと決めたからこそ、守りを怠れない。
三日目、城主の使者が来た。
「兵を罰しないという約束は本当か」
劉備は使者の前で誓い、龐統は条件を読み上げた。
城門が開いたとき、兵たちは槍を置き、住民は泣きながら外へ出た。
「一兵も失わずに城を取った」と報告されたが、龐統は首を振った。
「まだ終わっていません。飢えた人々に明日の食事を届けて、ようやく勝ちです」
俺は新しい炊事場の位置を決めるため、城内へ入った。
戦わずに開いた門の向こうにも、やるべき仕事は山ほどあった。
三日目の朝、城門が開いた。
守将は鎧を脱ぎ、刀を両手で捧げて歩いてきた。
「部下と民を助けてくれるなら、城を渡す」
龐統は刀を受け取らず、劉備の前へ案内した。
劉備は守将を起こし、「あなたが守ろうとした人々を、私も守りたい」と言った。
城壁の上から子供たちが顔を出した。
最初に見たやせた子もいた。
彼は俺の鍋を指さして笑った。
張飛は城門をくぐりながら、妙に悔しそうだった。
「槍を振るう場所がなかった」
「それが一番です」と俺が言う。
「分かっている。分かっているが、手柄を立てた気がせん」
関羽が横から答えた。
「兵を一人も失わなかった。これ以上の手柄があるか」
張飛は黙り、やがて照れくさそうに笑った。
俺は新たな住民の人数を記録し、食料の残量を数えた。
城を取るより、城を食わせ続ける方が長い仕事になる。
龐統は城壁から遠くの畑を見下ろした。
「今日は敵が一人も死ななかった。だが、これで終わりではありません」
「ええ。明日の朝食から始まります」
彼は嬉しそうに頷いた。
刀を抜かずに勝つ策が、鍋一つから始まるとは思わなかった。




