第六十一章:関羽は、曹操の精鋭騎兵を一方的に撃退した
屯田地の麦が穂を垂れ始めた朝、北の見張り台から鐘が鳴った。
曹操軍の騎兵が、収穫前の畑を焼きに来たのだ。
村人が鍬を放り出し、畦道を逃げる。
畑の先には小川があり、橋は荷車一台がやっと通れる幅しかない。
関羽は兵を並べるより先に村長を呼んだ。
「人を先に渡せ。穀物は後でよい」
「でも、今年の収穫が……」
「生きていれば来年も蒔ける」
俺は避難する家族に水袋を配り、荷車の荷を下ろして老人と子供を乗せた。
車輪の軸には先週から油を差してある。
こんなときに壊れたら、工房で胸を張ってきた意味がない。
騎兵は速い。
だが畑を踏み荒らす馬の群れは、必ずしも自由に走れるわけではなかった。
孔明は卓上に石を並べ、関羽に小川沿いの湿地を示した。
「敵は橋を目指します。畑の中央で戦えば、守るべきものを自分たちで潰してしまう」
関羽は頷いた。
「橋の手前で受ける」
「その前に、村人の列が途切れる時刻を知らせてください」と俺が言った。
伝令は徒歩では間に合わない。
俺は以前から作っていた色布の旗を、橋と見張り台の二か所に渡した。
青は避難中、白は完了。
夜には使えないが、今日の空は晴れている。
正午前、先頭の敵騎兵が麦畑を横切った。
関羽の隊は突撃しなかった。
狭い畦道に沿って槍兵を置き、騎兵が向きを変えにくい場所へ誘った。
敵将は関羽の青龍偃月刀を見て、むしろ好機だと思ったらしい。
少数の守備隊を蹴散らせば、橋を奪える。
ところが先鋒が小川に近づくと、馬の蹄が柔らかい土に沈んだ。
進もうとする後続が詰まり、旗が重なった。
「今だ」
関羽は静かに命じた。
横から弩兵が射かける。
敵は散ろうとしたが、散れば畑の畦に脚を取られる。
関羽の騎兵は乾いた堤の上だけを走り、敵の指揮官を狙った。
趙雲が現れたのは、勝利の祝宴ではなく、泥だらけの避難民の列の先頭だった。
白馬の背には老人が乗り、趙雲自身は手綱を引いて歩いている。
「騎兵が村を焼こうとした。ここなら受け入れてもらえると聞いた」
劉備が名を尋ねると、男は趙雲、字は子龍と答えた。
関羽はその槍の穂先を見た。
刃こぼれは少ない。
無駄に振るわず、必要なときだけ使った槍だ。
避難民の中には、敵の間者ではないかと疑われる青年もいた。
張飛が腕を組んで睨む。
趙雲は一歩前に出た。
「疑うなら私を先に調べてください。彼らを夜露に立たせないでほしい」
俺は兵舎の床に敷く藁を集め、炊事係に粟粥を増やすよう頼んだ。
避難民の数が分からず、釜の底が見えた。
趙雲は自分の分を受け取らず、子供の椀へ移した。
夜が明けると、敵の斥候が再び現れた。
趙雲は追撃を申し出ず、まず避難路の狭い橋を見に行った。
橋板が一枚抜けている。
馬で駆ければ渡れるが、老人は落ちる。
彼は槍を置いて板を打ち直した。
「敵を討つ腕より、逃げる人を守る腕が欲しい」劉備がそう言うと、趙雲は初めて笑った。
「ならば、この槍をお預けします」
関羽は頷いた。
「戦場では私の左を守れ」
「承知」
俺は二人の背を見送りながら、白馬に与える飼料の量を帳面き足した。
英雄が一人増えるということは、守るべき命も、食わせるべき馬も増えるということだ。
俺は橋のそばで白旗が上がるのを見た。
最後の村人が渡ったのだ。
その直後、北側で短い火薬の轟音が響いた。
敵馬を傷つけるためではない。
孔明が決めた、予備隊を動かす合図だ。
風に紛れず遠くまで届く音を、俺たちは以前から使っている。
敵騎兵はその音で一瞬ひるんだ。
そこへ関羽が突入した。
刀が敵将の旗竿を断ち、旗が泥に落ちる。
「退け! 退け!」
指揮を失った騎兵が橋へ押し寄せる。
しかし橋の前には、まだ関羽の槍兵がいる。
逃げ道を失いかけた敵に、関羽は南側の乾いた道を開けた。
敵は武器を捨て、そちらへ走った。
戦いが終わると、関羽は真っ先に麦畑へ向かった。
倒れた穂は少なくなかったが、村全体が焼かれることはなかった。
「勝ったのに、麦がこんなに……」と村長が唇を噛む。
俺は踏まれた麦のうち、乾燥させれば食用にできるものを分けるよう提案した。
泥のついたものは家畜の餌に回す。
収穫を急ぐ人手は軍から出すことにした。
「軍が畑を刈るのか」と張飛は目を丸くした。
「守っただけじゃ、冬に食べられませんから」
関羽は刀を置き、袖をまくった。
兵たちもそれに続いた。
趙雲が救い出した避難民の中に、靴を片方なくした少年がいた。
少年は趙雲の鎧の裾をつかみ、「馬の人、また来る?」と尋ねた。
趙雲は膝を折り、少年と同じ高さで頷いた。
「今度は戦のない道を通って来よう」
俺は工房の革の端切れで小さな靴を作るよう頼んだ。
趙雲は受け取った靴をしばらく見つめ、「敵を倒すより、こういう約束を守る方が難しい」と呟いた。
少年はまだ、その言葉の重さを知らなかった。
夕方、白馬に乗った若い武人が避難民の最後尾を護衛して到着した。
趙雲、字は子龍と名乗った。
彼は追手を追い払った手柄より、途中で転んだ子供の話を先にした。
「戦う者が守るべきは、逃げ遅れた一人です」
劉備はその言葉を聞き、深く頭を下げた。
「その志、私のもとで生かしてほしい」
趙雲は静かに膝をついた。
関羽は新たな仲間の肩を叩き、「次は共に橋を守ろう」と言った。
俺は彼の馬に乾いた飼葉を渡した。
新しい英雄が来た日にも、馬は腹が減る。
それが妙に嬉しかった。
趙雲が救った子供は、別れ際に白い布切れを差し出した。
「馬の傷に巻いて」
趙雲は受け取らず、「お前の膝の傷に使え」と言った。
子供は頑として譲らない。
結局、趙雲は布を二つに裂き、半分を子供の膝に、半分を馬の脚に結んだ。
俺はその不器用な約束を忘れなかった。
趙雲も、次にその子に会うまで布を解かないと笑った。
入隊を認められた趙雲は、翌日から騎兵の訓練を始めた。
だが彼が最初に命じたのは槍の突き方ではない。
馬の蹄を調べ、鞍の紐を締め直し、水を飲ませる順番を決めることだった。
「敵より先に倒れる馬が出れば、救える者も救えません」
俺は趙雲に、飼料の袋を小分けにした試作品を渡した。
粟と刻んだ乾草を別々に包み、雨で濡れたときに取り替えやすくしてある。
ただし馬によって食いつきが違う。
趙雲は三頭で試し、一頭が粟を残すと記録した。
「全ての馬が同じではないのですね」と俺が言うと、彼は笑った。
「人も同じでしょう」
その日の夕刻、村の少年が馬に近づいて蹴られそうになった。
趙雲は叱るより先に少年を引き寄せ、馬の後ろへ立たないことを教えた。
少年は涙を拭いながら尋ねた。
「将軍は怖くないの?」
「怖いさ。怖いから、相手が何を嫌がるか見る」
戦場では一騎当千と呼ばれる男が、少年には馬の耳の向きを教えている。
俺はその光景を見て、趙雲が劉備軍に加わった意味を少し理解した気がした。
夜、関羽は趙雲の訓練を遠くから見ていた。
「あの男は突撃よりも、退く兵をまとめるのが上手い」
「強いだけじゃ駄目ですか」
「強い者が一人いても、守れる場所は一つだ。兵を生きて帰す者なら、十の場所を守れる」
夜が明けると、趙雲は避難民の護衛に出た。
白馬の後ろには、俺が作った水袋が二つ揺れていた。
その数日後、関羽は趙雲を呼び、橋の守り方を改めて確かめた。
「あの日、敵将を追わなかった理由を聞きたい」
「追えば敵は倒せました。しかし橋の向こうに、まだ逃げ遅れた家族がいました」
関羽は一度だけ頷いた。
「勝ちを急がぬ勇気も、将には要る」
俺は二人の前に麦飯と煎り豆を置いた。
趙雲は箸を取る前に、厩舎の馬に水が行き渡ったかを確かめに立った。
関羽はその背を見送り、「良い男を得た」と小さく言った。




