第六十章:曹操は、臥龍と鳳雛が揃ったことに戦慄した
曹操の前に置かれた敗報は、血の跡が残るほど握り潰されていた。
「五万が退いた。関羽でも張飛でもない。命令が届く前に、こちらの退路が決まっていたというのか」
報告に来た将は、劉備軍の軍旗が二度しか動かなかったと答えた。
最初の旗で先鋒が引き寄せられ、次の旗で横腹を突かれた。
火薬の音は一度きり。
主力を崩したのは、むしろ動かなかった部隊だった。
「諸葛亮に、龐統……」
曹操は二人の名を並べ、しばらく地図を見つめた。
「臥龍と鳳雛を得たという噂は本当か」
「はい。さらに、捕虜を殺さず、粥を配っているとのこと」
曹操はそこで顔を上げた。
「その粥を作る穀物は、どこから来る」
俺がそのころ頭を抱えていたのも、まさに穀物のことだった。
五万の敵を退けた後、捕虜が千を超えた。
味方の負傷者もいる。
炊事係が見せた釜は底が薄く、長時間煮ると焦げつく。
兵と捕虜を同じ列に並ばせれば争いになるし、別々に炊けば薪が足りない。
「捕虜まで食わせるのか」と若い倉庫番が聞いた。
「飢えた者に逃げ道をなくせば、次の戦で敵は最後まで抵抗する。俺たちも損をする」
もっとも、理屈で穀物は増えない。
俺は配給札を木片で作り、人数と受け取り場所を刻んだ。
粟と大豆を一緒に煮れば、少ない肉でも腹持ちがよくなる。
大豆は固いままだと火が通りにくい。
前夜から水に浸しておくよう頼んだ。
炊事頭の老女は、俺の案を聞くなり鼻を鳴らした。
「木札なんて、腹の足しにならないよ」
「同じ人が二度受け取るのを防げます」
「だったら札をなくした奴は飢えさせるのかい」
返事に詰まった俺に、老女は湯気の立つ柄杓を押しつけた。
「数字を見るなら、人の顔も見な」
俺は札を紛失した者のため、隊長と炊事係の二人で確認する欄を加えた。
制度は便利でも、制度からこぼれる人がいる。
そこまで考えて初めて道具になる。
夜が明けると、俺は捕虜の食事を作る者たちと一緒に、倉の床に穀物の袋を並べた。
粟は残り六日分。
大豆は七日分。
敵から奪った袋もあるが、湿ったものは口を開くと酸っぱい匂いがした。
見た目だけで使えると判断するのは危険だ。
「捨てるのかい。もったいない」老女が言った。
「食べて倒れたら、もっと失います」
俺は使える穀物と使えない穀物を分け、袋の外側に墨で印をつけた。
乾燥した豆を砕く石臼も足りない。
鍛冶場に頼むと、職人は「剣を直す順番が先だ」と怒った。
そこで劉備に相談し、石臼の修理に半日だけ人を回してもらう。
「武器より食事を優先するのか」と張飛が眉を上げた。
「食えない兵は、武器を握れません」
張飛は少し考えてから、部下を二人貸してくれた。
大男たちが石臼を運ぶ姿を見て、炊事係が声を立てて笑う。
笑い声が戻ったのは、戦が終わったからではなく、明日の食事を作れると分かったからだった。
夕方、捕虜の一人が故郷の料理を教えてくれた。
豆を炒ってから砕けば香りが立つという。
俺は試しに少量を煎り、粥へ混ぜた。
味はわずかに変わっただけだが、捕虜は椀を抱えたまま涙ぐんだ。
「母が作ってくれた味だ」
敵軍の情報を引き出すためではない。
そう説明するまでもなく、彼は自分から故郷の名を口にした。
戦場で敵味方を分ける旗より、食卓の方が人の境界を越えることがある。
俺はそのことを、忘れないよう帳面白に書いた。
翌日、老女は捕虜に料理を教わったことを隠そうとしなかった。
「敵から教わった味だって、うまけりゃ残せばいい」
俺は笑った。
戦で奪ったものを数える帳面は多い。
だが敵から受け取った小さな知恵を数える帳面は、まだどこにもない。
いつか戦が終わったら、そんな料理を集めた本を作りたいと思った。
料理の名と作り方だけでなく、それを教えてくれた人の故郷も書き残そう。
争いで消えてしまうものを、少しでも残すために。
その日の午後、捕虜の中に腹を壊した者が相次いだ。
配給を疑った衛兵が剣に手を掛けたが、俺は鍋ではなく水桶を調べた。
井戸から運んだ水と、洗い物に使った水が同じ場所に置かれている。
印が消えた桶を、慌ただしい炊事場で取り違えたらしい。
「誰がやった」と衛兵が詰め寄る。
俺は首を振った。
「誰か一人を罰しても、明日また起きます」
飲み水の桶には青い縄、洗い物には赤い縄を結ぶ。
湯を沸かす釜は一つを専用にし、木札に火を入れた時刻を記した。
老女は面倒だとこぼしたが、病人の唇を湿らせてやると、黙って縄を結び直した。
夜、捕虜の一人が小さな声で尋ねた。
「俺たちを帰せば、また敵になるぞ」
「そうかもしれない」
「なのに、なぜ」
俺は返答に困った。
代わりに劉備が言った。
「戦場で敵だったことと、病んだ者を見捨てることは別だ」
その兵は黙って頭を下げた。
俺には、その沈黙が勝利の報告より重く感じられた。
孔明は配給札を一枚拾い、指で裏返した。
「受け取った人を数えるだけではありませんね」
「明日の人数も見積もれます」
龐統は札の山を眺め、笑った。
「敵は兵の数を探る。我々は鍋の数を数える。どちらが長く戦えるか、面白い勝負です」
劉備が近づき、捕虜の列を見た。
敵兵は最初、椀を受け取ろうとしなかった。
毒を疑っていたのだ。
劉備は自分の椀から一口すすり、同じ鍋のものだと示した。
「明日、お前たちをどうするかは決める。だが今夜は食べよ」
敵兵の一人が、震える手で椀を受け取った。
その夜、逃がした捕虜の一部が曹操の陣へ戻った。
尋問を受けた彼らは火薬の仕組みを知らず、孔明の陣形も説明できなかった。
ただ、劉備の兵は腹を空かせていなかった、と繰り返した。
曹操はその報告に、敗戦以上の不快さを覚えたらしい。
「劉備は勝利の後にまで兵を集めるのか」
彼は斥候に新たな命令を出した。
軍旗だけでなく、井戸、穀倉、炊事場、荷車の通る道を調べろ、と。
俺は曹操がそこまで見始めたことを知らず、次の朝の大豆を水に浸していた。
関羽が鍋を覗き込み、「昨日より香りがよい」と言った。
「今度は塩の量を揃えたいんです」
「戦の勝ち方より難しそうだな」
「実際、毎日同じ味にするのは大変ですよ」
関羽は笑わず、真面目に頷いた。
「毎日続けることこそ、軍の強さだ」
曹操が恐れたのは、軍師二人の頭脳だけではなかった。
二人の策を明日も実行できる、空腹でない兵の存在だった。




