第五十八章:龐統の偽情報に、曹操軍の将軍がまんまと騙された
曹操軍の将軍は、二つの報告を受けていた。
一つは、劉備軍が谷の入口に火薬を集めているというもの。
もう一つは、劉備軍の補給車が西の古道を通るというものだった。
「どちらが本当だ」
参謀は答えた。
「どちらも、商人と村人から別々に聞いた話です」
将軍は考え込んだ。
谷を進めば火薬が待つ。
西へ回れば補給車を奪える。
迷った末、彼は西へ別働隊を出すことにした。
それが龐統の望んだ最初の一手だった。
俺は西の古道に立ち、空の荷車を見送った。
幌の下には藁を積み、重い食料に見せかけている。
本物の食料は、農民の荷車に紛れて南の道を進んだ。
もちろん農民を危険にさらすわけにはいかない。
軍の護衛をつけ、敵が現れたらすぐ退ける経路も確保した。
「俺たちが囮か」と車を引く兵が言った。
「囮にするつもりはありません。敵が来たら車を捨てて逃げてください」
「荷車がもったいない」
「人の方が高いです」
兵は笑ったが、すぐに真顔で頷いた。
龐統は情報を広めるために、あえて正しい噂も混ぜた。
谷の入口に見張りがいるのは事実だ。
古道に荷車が通るのも事実だ。
嘘は、そこに火薬が大量にあることと、荷車に食料が満載だという部分だけ。
「全部嘘なら疑われる」と龐統。
「本当のことを混ぜると、嘘も信じるんですね」
「敵が自分で見たと思い込めば、もう我らが説得する必要はない」
孔明は作戦図を指した。
「ただし敵将が賢ければ、偽情報だと見抜く」
「見抜いても構わない。見抜くまでに一日かかれば、我らの勝ちだ」
偽の荷車を用意した夜、俺は兵に何度も退避路を歩かせた。
荷車を捨てる決断は、荷を守ることを教えられた兵には難しい。
そこで龐統は「車を守って死んだ者より、戻って次の車を引ける者が必要だ」と言った。
兵は顔を見合わせ、ようやく頷いた。
関羽は古道の出口に伏せた兵を視察し、草を踏み倒さぬよう命じた。
足跡一つで敵の斥候に気づかれる。
張飛は「そんな細かいことまで」と言ったが、自分の馬の蹄の跡を見て黙った。
俺はその場で布を使った簡単な目隠しを用意し、荷車の轍を見えにくくする手伝いをした。
夕方、騙された敵将は部下を叱りつけたという。
龐統は喜ばなかった。
「叱られた兵は、次から悪い知らせを隠す。敵の軍が弱くなるのは、そこからだ」
俺は背筋が冷たくなった。
偽情報は一日を奪うだけでなく、軍の中の信頼まで削る。
だからこそ、味方には失敗を報告できる空気が必要だった。
昼過ぎ、敵の別働隊が古道へ入った。
関羽の斥候が知らせを運ぶ。
「敵は荷車を追っています!」
張飛が槍を持った。
「今なら横から叩ける!」
孔明は止めた。
「まだ早い。敵の本隊が谷へ入るまで待ちます」
張飛は唇を噛んだが、命令を守った。
俺はその横顔を見て、以前なら真っ先に突っ込んでいただろうと思った。
やがて敵の本隊が動いた。
西へ兵を割いたことで、谷の前衛は薄くなっている。
孔明は旗を上げた。
関羽の兵が高台へ移動し、敵に姿を見せる。
敵将は、火薬を使う準備だと考えてさらに足を止めた。
「まだ鳴らさないんですか」と俺。
「鳴らせば敵は答えを得ます」と孔明。
「今は答えを渡さない」
敵将は夜まで進めず、補給隊も予定の場所へ届かなかった。
夕刻、古道から戻った兵が報告した。
「敵は空の荷車を奪って、大喜びしていました」
「幌を開けたら怒るだろうな」と張飛。
「怒って追ってくるかもしれません」と俺。
龐統は笑みを消した。
「そこが次の危険だ。騙された将軍は、面目を取り戻すために無理をする」
孔明は頷き、退路の警備を厚くした。
夜、俺は捕虜になった敵兵に温かい粥を渡した。
彼は警戒しながら食べ、ぽつりと言った。
「俺たちは、お前たちの火薬が怖かった。だが一番怖いのは、何が本当か分からないことだった」
俺は返事をしなかった。
龐統の策は成功した。
けれど敵兵もまた、誰かの命令で歩いてきた一人の人間だ。
遠くで太鼓が鳴った。
夜が明けると、孔明が本隊を動かす合図だった。
俺は空の荷車の数を確かめ、救護所の水を補充した。
偽情報で敵を止めることはできた。
だが五万の軍勢を退かせる本当の勝負は、これから始まる。
俺は偽情報に使った商人たちへ、危険を知らせて避難先を用意した。
策が成功したからといって、巻き込んだ人々を置き去りにはできない。
龐統はその手配を見て「お前は策の外側まで数えるのだな」と言った。
俺は「数え忘れると、あとで誰かが困りますから」と答えた。
夜が明けると、偽の荷車を奪った敵兵が、中身を見て怒鳴り合ったという報告が来た。
だが龐統は油断しなかった。
「怒りは次の突撃を生む。敵将が無理をすれば、こちらも危険だ」
孔明は関羽に伝令を送り、敵の進路を観察させた。
張飛には追撃を禁じ、退く兵を迎える役を命じた。
俺は囮を務めた兵たちに食事を配った。
彼らは戦っていないことを気にしていた。
「俺たちは逃げただけです」と一人が言う。
俺は首を振った。
「逃げる時刻を守ったから、敵の目が西へ向いたんです」
兵は驚いた顔をした。
張飛も横から「命令通りに逃げるのは、俺にも難しい」と言って笑わせた。
夜、龐統は俺に「策に騙された敵を笑うな」と言った。
「次は我らが騙されるかもしれない」
俺は頷いた。
相手を愚かだと思った瞬間、こちらの目が曇る。
今日の成功を記録するなら、明日の失敗につながる油断も一緒に書かなければならない。
偽の荷車が戻ると、車輪の一つが欠けていた。
囮の兵は「すみません」と頭を下げたが、俺は「戻ってきたなら十分です」と答えた。
職人頭は車輪を外し、明日までに直すと言った。
張飛は荷車を眺めて「敵から奪ったわけでもないのに、勝った気がするな」と笑う。
龐統は「敵の一日を奪ったのだから、立派な戦果だ」と答えた。
俺はその一日を、村人が畑で過ごせたことを思った。
眠る前、俺は敵に奪われた空の荷車を思い出した。
藁しか積んでいない車を見つけた兵は、どんな顔をしただろう。
笑って済む者もいれば、怒鳴られた者もいるはずだ。
戦の策には必ず人がいる。
勝った側の記録だけで終わらせず、相手が何を見たかも考えておきたい。
夜が明けると、敵陣から煙が上がった。
偽の荷車を追った部隊が戻り、将軍の怒号が響いたらしい。
龐統は喜ばず、「敵の将は、次には報告を二度確かめるだろう」と言った。
俺は囮に使った荷車の軸を外し、傷んだ木材を交換した。
車を直す職人の槌音が、朝の炊事場まで届く。
戻った斥候が龐統に尋ねた。
「また同じ手を使いますか」
龐統は車輪を叩き、「同じ罠に二度かかる将なら、戦う前に降伏しているよ」と笑った。
斥候は笑い返し、傷んだ軸を支える手を貸した。




