第五十七章:孔明と龐統は、敵軍五万を撃破する策で意見が対立した
曹操軍五万が南へ動いた。
その報告を受けた孔明は、街道の狭い谷を指した。
「ここで敵の先頭を止め、後続を分断します」
龐統は首を振った。
「それでは敵は逃げて、別の道から戻る。補給を断ち、戦う前に退かせるべきだ」
張飛が目を輝かせた。
「お、喧嘩か!」
「将たちの協議です」と関羽がたしなめた。
だが二人の声は次第に鋭くなった。
孔明は敵が今すぐ進むことを危ぶみ、龐統は勝った後の長い追撃を嫌った。
どちらも理にかなっている。
俺は黙って記載を確かめていた。
五万の敵に対して、こちらの食料は何日分あるか。
守る村はいくつあるか。
雨が降ったらどの橋が使えなくなるか。
二人の策のどちらが優れているか、俺には決められない。
けれど、両方の策に同じ穴があることは分かった。
「この谷の橋、先週の雨で傷んでいます」
二人が同時にこちらを向いた。
「孔明殿の策では、味方が戻るときに通ります。龐統殿の策では、補給車が通ります。どちらにしても、橋が落ちたら困ります」
龐統が地図を引き寄せた。
「修理には何日?」
「職人を集めれば二日。ただし木材が足りません」
孔明は即座に言った。
「なら、敵が来る前に修理しない。橋を使わぬ策に変えましょう」
「私も同意だ」と龐統。
張飛が残念そうに言った。
「もう喧嘩は終わりか」
協議が終わったあと、孔明は一人で橋を見に行った。
俺がついていくと、橋板の下には古い割れ目が走っていた。
「地図では渡れたはずでした」と孔明。
「現場は地図より正直です」
俺が言うと、孔明は少し笑った。
「それを教えてくれる人が軍にいるのは、ありがたい」
俺は恐縮したが、次の瞬間、足元の板が鳴って二人とも慌てて引き返した。
龐統は村の酒場で、敵の動きを尋ねていた。
ただし敵の人数を直接聞かず、馬の餌の値段や荷車の通った回数を聞く。
俺が理由を尋ねると、「軍勢の数は嘘をつけるが、馬の腹は嘘をつかない」と答えた。
俺はその方法を補給係にも教えた。
商人の話を鵜呑みにせず、別の数字と照らし合わせるためだ。
出陣前の食事で、劉備は兵の椀を見て回った。
張飛が「兄者、軍師二人が喧嘩しても大丈夫か」と聞くと、劉備は「喧嘩しているうちは、互いの顔を見ている」と答えた。
俺は、その信頼があるからこそ二人は遠慮なく反論できるのだと思った。
その夜、二人は別々の机で案を練った。
孔明は敵の進路を制限する布陣を描き、龐統は敵の補給隊を惑わせる偽の情報経路を考える。
俺は二人に温かい豆の汁を運んだ。
「食べてください。頭だけ動かしても腹は減ります」
孔明は礼を言い、龐統は椀を覗き込んだ。
「また豆か」
「嫌なら麦の粥もあります」
「いや、豆がいい。腹が減ると人は短気になるからな」
「さっきの話し合いは?」
「腹が減っていた」
孔明が小さく笑った。
夜が明けると、関羽は谷の出口を守る役を引き受けた。
ただし敵を追い込みすぎないよう、道を一つ残す。
張飛には敵の前衛を引きつけ、こちらが指定した地点まで退く役が与えられた。
「俺に逃げろと言うのか」
「敵が追ってきたら、将軍の勝ちです」と孔明。
張飛は考え、やがて笑った。
「なら一番上手に逃げてやる」
龐統は別に、敵の補給隊へ届く偽の噂を用意した。
火薬が谷の入口に集められている、というものだ。
実際の火薬は、味方の退路を守るために少量だけ確保してある。
俺は作戦を聞いて、ひとつだけ条件を出した。
「民の井戸と麦畑は使わないでください」
「敵がそこへ入ったら?」と孔明。
「避難路を確保します。畑を守るために人を死なせたくはない」
孔明は頷いた。
「その線は、我らも越えません」
龐統は別の印を地図につけた。
「なら、ここに偽の倉庫を置こう。敵は麦畑より倉庫を狙う」
出陣前夜、劉備が二人を呼んだ。
「意見が割れたと聞いた」
孔明が頭を下げる。
「はい」
「ならば良い。わしの前で黙って頷く者が二人いても、軍は強くならぬ」
龐統が口元を緩めた。
「では、明日は二人で別の勝ち方をお見せしましょう」
俺は窓の外を見た。
補給車が静かに動き、炊事場では朝の分の麦が水に浸されている。
大軍との戦はまだ始まっていない。
だが勝敗を分ける小さな準備は、もう何百と積み重なっていた。
橋を使わないと決めたことで、輸送路は遠回りになった。
俺は荷車の隊長へ予定を伝えた。
隊長は嫌な顔をしたが、危険な橋を渡るよりはましだと頷いた。
軍師の妙案が現場の一時間を増やす。
その一時間をどう埋めるかが、俺の仕事だった。
出陣の二日前、村の子供が軍営へ走ってきた。
「橋の下で水が渦を巻いてる!」
俺は孔明と現場へ向かった。
水は増え、橋脚の土を削っていた。
孔明は作戦図を折りたたみ、「この橋は使わないと決めて正解でした」と言った。
俺は子供に礼を言い、炊事場で温かい汁を飲ませた。
子供は「また何か見つけたら言う」と胸を張った。
龐統はその話を聞き、「良い斥候だ」と笑った。
俺は「子供を危険な場所へ行かせたくありません」と返した。
龐統は真顔になり、「なら、大人が見に行ける仕組みを作れ」と言った。
翌日から、橋と水路を見回る当番を決めた。
軍の仕事を村の子供に頼らないためだ。
夜、孔明と龐統はついに一枚の地図を囲んだ。
孔明が敵の先頭を止め、龐統が後続の判断を鈍らせる。
二つの策は争うものではなく、順番に働くものになった。
俺はその横で食料の到着時刻を書き込んだ。
三人の筆が同じ紙を動いていた。
夜が明けると、兵が新しい道を試し歩いた。
予定より遠く、途中に急な坂があった。
俺はその報告を聞き、休憩の場所と水の量を増やした。
孔明は「地図では短く見えた」と素直に認め、龐統は「だから足で確かめる」と答えた。
二人の天才も、泥の道には勝てない。
俺はその当たり前の事実が少し嬉しかった。
誰かの知恵を、別の誰かの経験が支える。
そういう軍なら、まだ強くなれる。
夜更け、俺は二人の机に残った墨の跡を見た。
最初は別々だった線が、最後には一つの道につながっている。
意見が違うことは弱さではない。
違う考えを持ち寄り、現場の声で確かめ、最後に同じ方向へ進むことができれば、それは大きな力になる。
明日の戦で、その力が試される。
夜、斥候が泥だらけで戻った。
「谷の南側に、地図にない細道があります。ただし馬は通れません」
孔明は作戦図の線を一本消した。
龐統は別の線を引き直す。
張飛が顔をしかめた。
「また変えるのか」「敵より先に変えられるなら、変えた方がいい」と俺は言った。
干し飯を配る場所も修正する。
勝利は作戦会議の最後の一言で決まるのではない。
眠らず歩いた斥候の靴底から、少しずつ形になる。




