第五十三章:曹操は、劉備軍に天才軍師が加わったと知った
曹操の本営に届いた敗報は、三通あった。
一通目は「火薬による奇襲」。
二通目は「関羽と張飛の挟撃」。
三通目には「劉備軍の炊事場は戦闘中も動いていた」とある。
曹操は三通目を長く読んだ。
「敵が勝ったあとも飯を配っていた、と?」
報告に来た将校が頷く。
「捕虜にもです。逃げ帰った兵が申しておりました」
「では、逃げた者の口から劉備の名が広まる」
曹操は机を叩いた。
怒りではない。
考えを切り替えるときの癖だった。
「孔明。諸葛亮か。噂だけの男ではなかったようだな」
側近が火薬の対策を尋ねると、曹操は首を振った。
「火薬は厄介だ。しかし敵の恐ろしさは、あれを使ったあとに軍が乱れぬことだ。兵器だけ盗んでも同じにはならぬ」
一方、俺たちの軍営は勝利の熱に浮かれていた。
若い兵が、火薬さえあれば曹操に負けないと豪語している。
「その火薬を運ぶ荷車が壊れたら?」と俺は尋ねた。
「直せばいい」
「敵が先に橋を落としたら?」
「別の道へ」
「その別の道に敵がいたら?」
兵は黙った。
俺は責めたいわけではなかった。
勝った日の油断は、負けた日の恐怖より扱いが難しい。
孔明は訓練場に兵を集め、旗と太鼓だけで模擬戦をさせた。
火薬の音がないと、兵は意外なほど早く焦る。
張飛は自ら隊列の端に立ち、命令を聞かずに飛び出した兵を引き戻した。
「勝ちたきゃ、隣の奴を見ろ!」
その声に、新兵の足が止まった。
曹操の側近は、敗戦の責任を一人の将軍へ押しつけようとした。
だが曹操は報告を遮った。
「一人を罰しても、劉備の兵糧庫は消えぬ」。
彼は地図に指を置き、次に攻めるべきは軍勢ではなく補給の結び目だと考えた。
その判断は冷徹だったが、敵を正しく恐れている証でもあった。
俺たちの側でも、孔明は勝った戦の失敗だけを集めた。
張飛の隊が予定より早く動いたこと、救護所への道が一度塞がったこと、捕虜の人数が夕方まで分からなかったこと。
張飛は「勝ったのに叱られるのか」と不満を漏らした。
孔明は「負けたあとでは、叱る相手が残らないこともあります」と静かに返した。
張飛はそれ以上何も言わなかった。
夜、俺は余った豆の粉を袋に詰め、行軍する兵へ配る試験を始めた。
味見をした兵は「腹が膨れるなら文句はない」と言ったが、別の兵は「帰ったら家の飯が食いたい」と笑った。
俺はその言葉を聞き、軍の食事がどれほど改善されても、家に帰れることにはかなわないと思った。
俺は炊事場で小さな実験を始めた。
干した野菜を湯で戻し、豆の粉を混ぜる。
塩が少なくても食べられるよう、炒った穀物の香りを利用した。
兵が長く歩くとき、重い鍋を毎回運べないからだ。
「味はどうです?」
関羽は一口食べ、考え込んだ。
「悪くない。ただ、寒い夜には熱い汁が欲しい」
「そこなんです。携行食は便利でも、毎日それだけでは士気が落ちます」
「兵の腹は、戦の前から戦っているのだな」
関羽は真顔でそう言った。
妙に納得してしまった。
夕方、敵の捕虜から曹操軍の伝令経路を聞き取った。
孔明は質問を重ねたが、責め立てることはしない。
「軍の命令は、どこで受け取る?」
「北の宿駅です」
「遅れたときは?」
「別の馬が来るまで待つ」
孔明は作戦用の板に宿駅の印をつけた。
俺は気づいた。
「敵の伝令が遅れる場所を探しているんですか」
「それもあります。ただ、敵は我らの伝令も探すでしょう。先に弱点を知っておきたい」
曹操はそのころ、次の指示を出していた。
火薬の音に惑わされぬ訓練を始め、補給隊を前線から離して守る。
さらに劉備領へ商人を送り、食料の集め方を調べさせる。
俺たちが変えた戦い方を、敵も学び始めたのだ。
「相手は曹操だ」と劉備が言った。
「一度負けたからといって侮るな」
孔明は深く頷いた。
その夜、俺は兵糧庫の札を数え直した。
勝利の祝宴を望む声もあったが、食料を一度に使うわけにはいかない。
代わりに、傷の癒えた兵と帰郷する農民へ、温かい汁を一杯ずつ増やした。
「こんな祝いでいいのか」と張飛。
「明日も食べられる祝いがいいんです」
張飛は椀を持ち上げた。
「じゃあ明日も勝とうぜ」
「勝つために、まず明日の飯を守りましょう」
遠い北の本営で、曹操もまた同じ問いに向き合っているはずだった。
火薬の時代が始まったのではない。
互いの弱点を学び合う、新しい戦が始まったのだ。
曹操は報告の末尾に「劉備軍の捕虜待遇を調べよ」と書き加えた。
敵が兵を引きつける理由を知らなければ、次も同じ負け方をする。
遠く離れた二つの本営で、俺たちは奇妙なほど似た書付台帳げていた。
ただし、何のために数字を使うかは違っていた。
数日後、北から届いた商人の話では、曹操軍が兵の行軍訓練を変えたという。
爆音が聞こえても隊列を崩さないよう、太鼓を不規則に鳴らしているらしい。
張飛は「なら、もっと大きな音を出せばいい」と言ったが、孔明は首を振った。
「音を競えば、いつかこちらが先に疲れます」。
俺も賛成した。
火薬は貴重だ。
力比べの道具として浪費すれば、こちらの弱点を晒す。
俺は工房で、壊れた輸送箱を分解していた。
木材の傷みを調べると、車輪の振動で釘が緩んだ跡があった。
職人頭は「火薬を守る箱より、箱を運ぶ道を直した方が早い」と言った。
まったくその通りだ。
俺は道の補修を優先し、雨の日の輸送速度を改めて測ることにした。
孔明は結果を聞き、「敵の軍師も、きっと同じ数字を求めています」と言った。
その夜、俺は勝利の記録に新しい欄を作った。
『敵が次に学ぶこと』。
予測が当たるとは限らない。
だが敵を愚かだと思って戦えば、いつか必ず足をすくわれる。
曹操は負けを恥じても、負けから学ぶ男だ。
俺たちも、勝った日の学びを止めてはいけない。
夜が明けると、井戸番の少年が炊事場に飛び込んできた。
「敵の斥候を見ました。けれど、あの人たち、水を飲んでいません」。
少年は敵の足跡が井戸へ続いていないことに気づいていた。
俺は偵察隊が井戸を調べていると決めつけ、見張りを増やしていた。
孔明は少年の話を最後まで聞き、「狙いは水ではなく、水を運ぶ人の行き先でしょう」と言った。
俺たちは運搬路を変更した。
少年が去ったあと、俺は彼に礼を言いそびれたことに気づき、昼食の椀を持って追いかけた。
軍師の策を支えたのは、井戸の前で毎日働く小さな目だった。
孔明は新兵たちに、敵の将軍が次に何をするかを考えさせた。
「火薬を恐れなくなる」「補給を狙う」「夜に攻める」。
答えはばらばらだったが、孔明は一つも笑わなかった。
「どれもあり得ます。だから一つに決めつけない」。
俺はその姿を見て、知恵とは正解を早く言うことではなく、間違いを減らすために問いを増やすことなのだと感じた。
俺の記録にも、まだ空欄が多い。
その夜、敵の新しい偵察隊が川辺で目撃された。
いつものように火薬庫を探すのではなく、井戸と荷車の往来を数えていたという。
曹操はもう、轟音だけを恐れてはいない。
俺は炊事係に頼み、井戸の汲み上げ時刻をずらした。
兵糧車には同じ形の空箱を混ぜる。
相手が学んだなら、こちらも学び直す。
孔明が報告書を読み、「曹操は厄介な敵ですね」と笑った。
その笑顔には、勝った者の油断がなかった。




