第五十二章:孔明が初めて指揮した戦いは、敵軍三万の大敗に終わった
三万。
報告を聞いた張飛が笑った。
「ようやく相手らしい数になったな」
俺は笑えなかった。
曹操軍の三万が南下すれば、街道沿いの村が真っ先に踏み荒らされる。
麦はまだ刈り取り前だ。
食料庫を守っても、畑がなくなれば来年がない。
「敵将は急いでいる」と孔明は言った。
「前衛が荷車を置いて進んでいる。ならば、急ぐ理由をこちらが作ればよい」
「どうやって?」
「勝てそうだと思わせます」
俺は村へ走り、長老と向き合った。
避難を頼むと、老人は怒った。
「前の戦でも畑を捨てた。帰ったら盗まれていた。今度は何を信じろと」
返す言葉がなかった。
俺は倉庫の木札を取り出した。
「家ごとに預かった穀物の量を記します。軍が持ち出す分も、あとで返す分も。村の人にも同じ札を持ってもらう」
「紙の約束で腹は膨れん」
「その通りです。だから俺も残ります。収穫を守るために」
しばらくして老人は頷いた。
避難する者、家畜を連れて丘へ向かう者、麦を刈り始める者。
村が動き出した。
敵が退き始めたころ、村の井戸のそばに敵兵が一人倒れていると知らせが来た。
俺が駆けつけると、若い男は足を痛め、立てずにいた。
村人は近寄りたがらない。
昨日までその男の仲間が畑を荒らすかもしれなかったのだから、当然だ。
俺は水を汲み、救護係を呼んだ。
男は震える声で「殺さないのか」と尋ねた。
「今は怪我人です」と答えると、彼は顔を伏せた。
夕方、村の子供たちが麦畑に戻った。
一本ずつ倒れた穂を起こし、踏まれた場所を見て回る。
俺は被害を数えようとしたが、子供の一人が「数えるより、こっちを手伝って」と言った。
確かにそうだった。
記録は大切だが、数字だけで穂は立たない。
俺も膝をついて作業を始めた。
孔明はその光景を見て、「戦の勝ち負けは明日には別の話に変わる。しかし収穫は冬まで続く」と言った。
俺は、三万という敵の数よりも、麦の穂の重さを長く覚えているだろうと思った。
孔明は街道のくびれた場所に少数の兵を置き、わざと後退させた。
敵将は逃げる劉備軍を追った。
だが先頭が低地へ入ったころ、両側の丘に関羽の旗が現れる。
「包囲か!」
敵将は兵を止め、後方へ命令を送った。
そこで最初の轟音が響いた。
俺たちがすでに実戦で使ってきた火薬を、孔明は丘の一角で合図として用いた。
敵の列の中で何が起きたかは、先頭から見えない。
煙が風に流れ、後続が足を止める。
「今だ!」
張飛の隊が側面に現れた。
だが張飛は一直線には突っ込まない。
先に弓兵が敵の盾列を崩し、その隙間へ騎兵が入る。
俺は張飛が訓練で何度も同じ動きを繰り返していたのを知っている。
「将軍、左へ!」
伝令が叫ぶと、張飛は即座に向きを変えた。
敵の別働隊が現れたのだ。
正面の敵を追うより、味方の横腹を守ることを選んだ。
俺のいる救護所にも、ほどなく負傷者が運ばれた。
手を震わせる若い兵がいる。
「俺、逃げたんです」
「走って戻ってきたなら、次の役目がある」
俺は水を渡した。
「包帯を運んでくれ。無理ならここに座っていていい」
若い兵は少しして立ち上がった。
戦の勝敗は地図の上で決まるが、その地図には震える手が描かれていない。
炊事係は麦と豆の粥を大鍋で煮ていた。
前線から戻った兵に温かい食事を渡し、捕虜にも同じものを配る。
鍋の底が見える前に、後方から次の荷車が届いた。
昨日のうちに道を補修しておいてよかった。
夕刻、関羽が街道の出口を押さえた。
退く敵兵の前に、武器を捨てれば通すという札を掲げる。
敵将は抵抗を続けたが、伝令が届かず各隊が別々に動いた。
三万の軍勢は統一した命令を失い、崩れていった。
「全滅させなかったのですか」と若い将校が尋ねた。
孔明は答えた。
「逃げ道のない兵は、最後まで戦う。こちらが守るべき畑の上で」
戦が終わり、村長が俺に麦の穂を一本差し出した。
「今年の分だ。全部は守れなかったが、これだけは残った」
俺は受け取れなかった。
「村の人で食べてください」
「礼じゃない。覚えておけということだ」
俺は穂を受け取り、手帳に挟んだ。
劉備が孔明に言った。
「初陣で三万を退けた。見事だ」
孔明は頭を下げた。
「私の策だけではありません。関羽将軍が道を守り、張飛将軍が命令を守り、彼が食料を止めなかったからです」
俺は首を振った。
勝ったのは、戦場に立った人たちだ。
だが孔明は続けた。
「誰か一人が欠けても、今日の勝ちはありません」
その言葉を、俺は忘れないと思った。
避難していた老人が村へ戻ると、家の戸が壊れていた。
関羽は自分の兵を呼び、戸を直すのを手伝わせた。
「戦で守った家を、雨で失わせてはならぬ」と言う。
俺はその言葉を聞き、守るという仕事には、戦が終わったあとの手間も含まれるのだと知った。
翌日、村の収穫を手伝う兵の中に、昨日まで槍を持っていた若者がいた。
彼は刈り方を知らず、麦を根元から引き抜いて村人に叱られた。
「戦では強いのに、畑では役立たずだな」と老人が笑う。
若者は悔しそうに何度もやり直した。
やがて穂を傷めずに刈れるようになると、老人は「これなら冬を越せる」と褒めた。
兵の顔がぱっと明るくなった。
俺はその光景を孔明に話した。
「戦のあとに兵が畑を手伝うのは、効率が悪いでしょうか」
孔明は少し考えた。
「一日だけ見ればそうかもしれません。しかし村が我らを恐れなくなれば、次の戦で道を教えてくれる。道を教えてくれる者がいれば、兵は無駄に迷わない」
俺は納得した。
人の信頼も、目には見えない補給路なのだ。
夜、捕虜の一人が故郷へ帰りたいと申し出た。
劉備は武器を取り上げたうえで、帰路の安全を確かめてから解放するよう命じた。
張飛は「また敵として戻るぞ」と心配したが、劉備は「それでも、今日ここで飢えさせる理由にはならぬ」と答えた。
俺はその言葉を胸に刻んだ。
三万に勝つより難しい決断が、戦のあとにも待っている。
勝利の夜が明けると、村の老婆が小さな籠を差し出した。
中身は焦げ目のついた麦餅だった。
「兵の方が、うちの井戸を壊さずに済ませてくれた礼です」
俺は受け取るのをためらった。
村の食料を奪わないと決めたのに、礼まで受けていいのか。
老婆は笑った。
「奪われたんじゃない。あげたいんだよ」
孔明は一つを割り、関羽と張飛に半分ずつ渡した。
三万の軍を退けた勝利が、ようやく俺の手の中で温かくなった。




