第百十八章:最後の戦は、刃ではなく約束を守るためにあった
盟約に反対する江東の一部の将が、港を占拠した。
孫権は自ら鎮めようとしたが、反対派は「北に屈するくらいなら船を焼く」と叫んだ。
港には漁船も商船も並び、倉には収穫したばかりの穀物が積まれていた。
火が出れば、町全体が飢える。
劉備の幕舎に知らせが届くと、張飛は立ち上がった。
「俺が行く!」
孔明は頷いた。
「ただし、倉を守るために行ってください。敵を討つためではありません」
龐統は反対派の将の名を聞き、眉を寄せた。
「この男は以前、曹操との戦いで家族を失っています。北の軍を信じられないのです」
俺は港の図を見た。
倉の裏には狭い水路がある。
そこへ小舟を入れれば、火を消すための水を運べる。
だが通路が狭く、大きな桶は通らない。
俺は職人に小さな水桶を数多く作ってもらい、縄で連ねる方法を試した。
「戦いに行くのに、武器より桶か」と兵が笑った。
「火が出たら、剣では消せないからな」
張飛の隊は夜明けに港へ入った。
反対派は槍を並べたが、張飛は突撃せず、倉の前に立った。
「船を焼くなら俺を越えていけ。ただし穀物に火をつけるなら、お前たちの家族も飢えるぞ!」
敵将は怒り、弓を引かせた。
その瞬間、港の端で火が上がった。
誰かが油壺を倒したのだ。
火は乾いた縄を伝い、倉へ迫る。
俺たちは小舟から桶を運び、火の前に水を撒いた。
江東の漁師も駆けつけた。
敵味方の区別なく縄を引き、濡れた布をかぶせる。
張飛は槍を置き、大桶を担いで走った。
「そっちじゃない! 風上からだ!」
俺が叫ぶと、張飛は舌打ちして向きを変えた。
力だけでは火を消せない。
風と水と人の順番が要る。
やがて火は止まった。
倉の扉は黒く焦げたが、中の麦は守られた。
反対派の将は膝をつき、張飛を見上げた。
「なぜ我らを討たぬ」
「お前を討ったら、倉を守る手が一本減るだろうが」
張飛はそう言って、男に水桶を渡した。
夕方、孫権が港へ到着した。
焦げた倉を見て、しばらく言葉を失った。
反対派の将は自ら剣を差し出したが、孫権はそれを受け取らず、「まず港を直せ」と命じた。
俺は火傷をした者に手当てをし、粥を配った。
焦げた匂いの残る港で、北の兵と江東の船員が同じ鍋を囲んだ。
孫権は港に残り、負傷者と焼け出された家族の名を一人ずつ聞いた。
「江東の旗を守るだけでは、江東の民を守ったことにならぬ」
その夜、彼は将たちを再び集めた。
港の倉を守った翌日、焼け残った麦を調べた。
外側の袋は煤で黒くなっていたが、中には食べられるものもあった。
俺は料理人と分別し、傷んだものを除いて炊き出しに回した。
港の住人は最初、劉備軍の配給を受け取ることをためらった。
張飛は椀を置き、「食うか食わんかは好きにしろ。だが腹を空かせた子には食わせろ」と言った。
女が子供の手を引いて近づき、やがて列ができた。
反対派だった兵も桶を運び、粥を配った。
火を消しただけでは港は戻らない。
人がまた働き、食べられるようになって、ようやく戻るのだ。
港の子供たちは夜が明けると、黒く焦げた壁に魚の絵を描いていた。
俺が何をしているのか尋ねると、「ここにまた市ができるから」と答えた。
張飛は壁を見て、珍しく黙った。
俺たちはその絵を消さずに修理する方法を考えた。
港の火が収まっても、江東の若い兵は張飛から渡された水桶を握りしめていた。
「俺の父は赤壁で死んだ」
張飛は声を荒らげなかった。
「俺の仲間も死んだ。だから今日は誰も焼かせん」
若者は唇を噛み、桶を置かずに倉の掃除を始めた。
焼け残った倉から、子供の字で「父ちゃん、帰ってきて」と彫られた木札が見つかった。
捕らえられた反対派の将に渡すと、男は初めて顔を覆った。
孫権は処刑を求める声を退けた。
「罪は償わせる。だが港を建て直す手まで失うことはない」
許すことと、なかったことにするのは違う。
評議が再開される朝、港の漁師たちは舟を出さずに待っていた。
北の兵が勝手に網を徴発するのではないかと恐れていたのだ。
俺は倉の前に立つ兵へ網を触らないよう命じたが、漁師の老人は首を振った。
「お前の命令は明日も届くのか」
孫権は老人の前に立ち、港の仕事を妨げる軍の命令には江東の役人も異議を申し立てられると告げた。
老人はそれでもすぐに笑わず、網を抱え直した。
俺はその慎重さを責められなかった。
信じるには、言葉より時間が要る。
翌朝、老人の舟がようやく岸を離れた。
見張りの兵は通行を妨げず、ただ浅瀬の位置を教えた。
老人は振り返って小さく手を上げた。
張飛も不器用に手を振り返し、俺はその様子を胸に刻んだ。
翌日、江東の評議は軍旗と自治の条項を含む盟約を承認した。
孫権は焦げた倉の前で印を押し、使者に封書を託した。
「劉備殿へ届けよ。江東は約束を守る、と」
使者の船が岸を離れると、張飛は槍ではなく水桶を掲げた。
俺は笑いながら泣いた。
最後の戦で守ったのは城でも旗でもない。
明日もここで暮らす人たちだった。
孫権が印を押す前、港の古い船頭が一歩進み出た。
「我らは戦に勝った者の約束を、何度も聞いてきた。明日から北の兵が港の税を勝手に取らぬと、誰が保証する」
孫権は書記を呼び、両軍の役人が立ち会わなければ新しい税を課せない条項を読み上げさせた。
船頭はなお黙っていた。
劉備の使者が「異議は江東の評議へ申し立てられる」と続けると、ようやく頷いた。
誰も歓声を上げなかった。
それがかえって、言葉の重みを伝えた。
張飛は帰り支度をする兵に「倉の壁を直してから行け」と命じた。
兵が「将軍、戦は終わったんですか」と尋ねる。
張飛は焦げた梁を見上げ、「戦は終わった。だから直すんだ」と答えた。
俺も釘を渡し、江東の職人と一緒に新しい板を当てた。
釘の音が港に響くたび、子供たちが一つずつ数えた。
剣のぶつかる音より、ずっと長く聞いていたい音だった。
その夕方、孫権は使者の舟を見送った。
北の兵は岸のこちら側で手を振り、江東の漁師は舟が流れに乗るまで綱を支えた。
誰も互いを信じ切ってはいない。
それでも、信じられる明日を作るために手を貸した。
俺は川面の光を見ながら、幼いころに欲しかったものを思い出した。
立派な旗でも、誰かの勝利でもない。
帰る場所と、明日の食事だ。




