第百十七章:孫権は降伏ではなく、天下のための盟約を求めた
孫権から、川の中州で会談したいとの使者が届いた。
互いの護衛は同数、剣は鞘から抜かない。
それでも張飛は「口先で船は止まるのか」と疑い、関羽は「まず話さねば、剣しか残らぬ」と返した。
俺は二人の間で、今度こそ誰も倒れずに済むかと考えていた。
中州に着くと、両軍の護衛が互いの剣に目をやった。
関羽は黙って劉備の隣に立ち、張飛も約束どおり手を出さなかった。
孫権は若い顔に疲れを隠せなかった。
「曹操を退けたあと、あなたが天下をまとめるとは思っていた。しかし江東をただ差し出すわけにはいかない」
劉備は答えた。
「差し出せとは言わぬ。民を戦の外へ戻したい」
「ならば江東の法と役人を、すぐに奪わないと約束できるか」
孔明が進み出た。
「税と治安の取り決めを明文化しましょう。江東の人材は江東で用い、中央の監督は段階的に置く。兵の配置も双方で確認します」
龐統は一枚の地図を広げた。
そこには城ではなく、市と港、農地と水門が描かれていた。
「国境を消すのは簡単ではありません。しかし商人の通る道を増やせば、国境を守る理由は少しずつ変わります」
孫権は地図を見て、長く黙った。
俺は会談の端で、茶の代わりに温かい豆の汁を出した。
孫権の護衛が警戒したので、俺が先に飲んだ。
毒を疑われるのは当然だ。
長く敵だった者が、急に同じ鍋を囲めるはずがない。
「お前が兵糧を変えた男か」と孫権が尋ねた。
「変えたのは料理人たちです。俺は失敗した数を記録しただけです」
孫権は少し笑った。
「江東には魚がある。北の麦だけを食べさせるつもりなら、民は従わぬぞ」
「魚の扱い方は、江東の人に教わりたいです」
その返事を聞いて、孫権の表情が緩んだ。
会談は長引いた。
江東の水軍をどう扱うか、徴税をいつ統一するか、戦死者の家族を誰が支えるか。
美しい言葉だけでは決まらないことばかりだった。
夕方、劉備は一つの案を示した。
孫権は江東の統治を続ける。
ただし天下を一つの政の下に置くことを認め、軍は互いに攻めず、共同の評議で争いを解く。
名目より先に、具体的な約束を積み重ねる。
孫権はすぐに印を押さなかった。
「江東へ戻り、皆に問う」
龐統は頭を下げた。
「それでよいのです。押し付けられた盟約は、長く続きません」
江東へ戻った孫権は、草案を評議にかけた。
だが港を守る将は兵権を失うことを恐れ、農民の代表は戦時の重税が続くことを疑い、戦死者の妻は「夫の名を誰が覚えている」と問い詰めた。
署名は延期された。
俺が苛立つと、劉備は首を振った。
「答えずに印だけ貰っても、天下は一つにならぬ」
劉備は自分の褒賞から遺族扶助を始めた。
だが地方官は「来年も同じ額を払えるのか」と問う。
そこで双方の村の代表を交え、必要な額と支払う期間を調べ、継続できる取り決めを作ることにした。
美しい約束が実際の暮らしを守れるか、ここからが本当の交渉だった。
帰りの船で張飛が言った。
「結局、今日は誰も倒しておらん」
関羽が答えた。
「だから良い日だったのだろう」
俺は二人の後ろで、空になった椀を重ねた。
孫権が汁を少し残した理由を考えた。
味が合わなかったのか、警戒していたのか。
次に会うときには、江東の料理人に作ってもらおう。
盟約の文面が整いかけたころ、孫権が一行を指さした。
「『江東の民は従来の税を納める』。従来とはいつの税だ。戦時に倍になった分も含むのか」
孔明は筆を止めた。
龐統も珍しく黙った。
俺は炊事場に置いていた物価の控えを持ってきた。
川を閉ざされてから、麦の値は村ごとに違っていた。
「税の数字も同じです。役人が書いた額だけでは、民が払えるか分かりません」
劉備は孫権へ向き直った。
「では、戦前の書付を基準にしよう。水害を受けた村は別に調べる。両方の役人と村の代表で確認する」
孫権はすぐには笑わなかった。
「確認する者を選ぶのも、こちらに認めてもらいたい」
「よい」
その短い返事で、刀を抜くより難しい約束が一つ増えた。
会談の翌日、江東の料理人がこちらの炊事場へ来た。
孫権の命令ではなく、自分の好奇心だという。
「北の豆を、魚と一緒に煮るのか」と鍋を覗き込んだ。
俺は試しに任せた。
料理人は魚を一度焼き、香りを出してから汁へ入れた。
味が見違えるほど変わった。
俺は驚き、作り方を聞いた。
料理人は得意げに笑い、「こっちの麦の炊き方も教えてくれ」と言った。
互いに知らないものを持ち寄ると、食卓は広くなる。
俺は盟約の条文より先に、この鍋が国境を越えた気がした。
盟約の草案を写す書記は、夜更けまで筆を動かした。
俺は温かい麦茶を運び、休憩を勧めた。
書記は「一文字違えば戦になる」と言った。
俺はその手元を見て、剣を持たない者にも戦場があるのだと知った。
孫権の使者が盟約の文面を読み上げるたび、周囲の顔が強張った。
川の通行権、港の税、兵の駐留。
龐統は一つずつ聞き、最後に「漁師が嵐を避ける港はどちらのものですか」と問うた。
使者は答えられなかった。
江東の料理人は、帰る前に北の麦を少し分けてほしいと頼んだ。
「うちの村でも試したい」
俺は代わりに魚を干す方法を教わった。
鍋を囲んだ数人の約束は小さかったが、誰かが国境を越えて学びに来る未来を思わせた。
通行札を受け取った商人が、翌日には別の関所で止められた。
俺は両軍の責任者を呼び、印の形を一つに揃えた。
商人は礼を言わず、「次も通れるなら信じる」と言った。
俺は翌日の見張りに自分から立ち会うと約束した。
両軍の護衛兵は、休憩になっても互いに背を向けていた。
江東の若い兵が水筒を落とし、こちらの兵が拾った。
渡そうとした手を、若者は一瞬ためらってから受け取った。
「お前たちは、本当に川を渡ってこないのか」
「命令が守られるならな」とこちらの兵が答えた。
俺は二人の間に立ち、翌日から渡し場で双方の見張りが一緒に民船を確認することを伝えた。
二人とも納得した顔ではなかったが、水筒を受け渡した手はもう剣の柄に伸びていなかった。
劉備は返書に、焼けた港を再建するための木材と職人の派遣を記した。
龐統が「それでは江東に借りを作らせます」と言うと、劉備は「借りではない。これから同じ国で暮らすための仕事だ」と答えた。
俺は返書を運ぶ船に、修理用の釘を積み込んだ。
夜、使者が帰る前に、江東の書記が草案の余白を指さした。
「水害の年には税を減らすと書いてほしい」
俺はその場で賛成したが、孔明は「減免を誰が判断するかまで決めねば争いになります」と言った。
江東と北の役人が同じ畑を見て決める条項を加えた。
会談の席に、江東の船頭たちが署名を拒む連名の訴えを届けた。
「役人の印より、明日も川を渡れる証拠が欲しい」
劉備は書面を置き、孫権とともに船着き場へ向かった。
二人の前で、両軍の見張りが互いを疑い、民船を止めた。
劉備は自軍の見張りを下げ、孫権も同じ命令を出した。
最初に渡ったのは、戦旗ではなく、病気の母へ薬を運ぶ娘の小舟だった。
船頭たちはなお署名しなかった。
だが翌日、もう一隻の舟が渡った。
俺は、その一隻を数えることから盟約が始まるのだと思った。
護衛の兵が戻ると、趙雲は中州で落とした縄を持ち帰っていた。
「次は風が強い。渡し舟を結ぶ場所を変えた方がいい」
俺は船頭を呼び、係留場所を確かめた。
和平の次の一日は、こんな地味な準備から始まった。
最後に争点となったのは、江東の軍旗だった。
孫権は「旗を失えば、兵は降伏したと思う」と譲らない。
劉備の側近が反発すると、劉備は言った。
「民を守る務めが同じなら、旗の色まで奪う必要はない」
孔明は、江東の水軍は従来の旗を掲げつつ、共同の政に従い他領へ独断で出兵しない条項を加えた。
孫権は文面を読み、ゆっくり頷いた。
「この条件なら、将たちに示せる」
ただし最終の印は、江東の評議を経て押すと約束した。
俺は二人の前に残された印泥を見た。
今はまだ空白だ。
だからこそ、次の一日が大切なのだ。




