第百十四章:孫権は全水軍を集め、最後の決戦を選んだ
朝、江東の川面を埋めるほどの帆が現れた。
赤壁では味方だった孫権の水軍が、今は向こう岸に整列している。
炊事場の兵たちは椀を持ったまま黙り込んだ。
ほどなく届いた使者は、孫権の印を持っていなかった。
「長老たちは決戦を求めています。広場では、兄を失った若い将が停戦案を破りました」
「それで孫権殿は?」と劉備が尋ねる。
「処罰はせず、漕ぎ手の名を調べ直させました。集められた者の半数は、漁や畑から呼び出された民です」
劉備は攻撃を急ぐ案を退けた。
「江東の民が納得せねば、勝っても戦は終わらぬ」
孔明は川の流れを、龐統は江東の諸将の立場を調べ始めた。
俺は使者に、停戦案を破った若い将の兄の名を尋ねた。
怒りの奥にいる一人の死者を、ただの障害として扱いたくなかった。
「決戦を避ければ弱腰と見られる。勝てなければ江東を失う。孫権は二つの恐れに挟まれています」と龐統は言った。
劉備は重い声で尋ねた。
「ならば、我らがすべきことは何だ」
「逃げ道を残すことです」
孔明は答えた。
敵を壊滅させるのではなく、戦いを終えるための勝利を得る。
だが勝利には、まず敵の水軍を止めなければならない。
俺は工房で新しい装備を点検した。
火薬はすでに劉備軍の武器だ。
新しいものとして扱う必要はない。
問題は船上での運用だった。
湿気に弱く、火が広がれば味方の船まで焼く。
そこで火薬を使う隊を限定し、離れた場所に保管し、合図がない限り持ち出さない規則を徹底した。
「強い武器ほど、使わない判断が要る」
工兵長がそう言った。
俺は頷いた。
俺たちが作ったものが、俺たちの手を離れて暴れるのは見たくなかった。
船員の食事も改めた。
揺れる甲板で熱い汁を運ぶのは危ない。
麦を柔らかく炊いて冷まし、豆を練ったものと一緒に小さく包む。
食べやすいが、時間が経つと固くなる。
漁師の助言で布を湿らせずに包み方を変えると、半日ほどは食べられる状態を保てた。
船の修理係には、同じ寸法の木栓と縄を束ねた箱を渡した。
戦場で板一枚を探している暇はない。
箱には絵で中身を示し、字を読めない者でも取り出せるようにした。
関羽は先鋒を申し出た。
「私が敵の目を引く。その間に水路を取れ」
張飛は拳を鳴らした。
「俺は岸を守る。逃げる船があれば捕まえてやる」
孔明は二人に違う命令を渡した。
関羽には攻める時刻を、張飛には追撃を止める線を。
張飛が顔をしかめた。
「止まれという命令が一番難しい」
「だからこそ、あなたに頼みます」と孔明は言った。
夕刻、劉備は兵を集めた。
「赤壁で共に戦った者を、憎むために出陣するのではない。民を守るために、戦を終わらせる」
俺は列の端でその言葉を聞いた。
勇ましい声に応えるように、兵たちが槍を掲げた。
だが俺が覚えていたのは、その後に聞こえた小さな声だった。
「帰ったら、また魚粥を食えるかな」
俺は振り返り、「食えるようにする」と答えた。
試験の最中、火薬を積まないはずの小舟から焦げ臭さがした。
工兵が隠していた予備の火種が、濡れた布の内側でくすぶっていたのだ。
俺は即座に全船の火種を回収させた。
「命令を破った者を叱るのは後だ。まず、なぜ持ち込んだか聞こう」
工兵は震える声で答えた。
「合図が見えなかったとき、火がなければ仲間を助けられないと思って」
その不安はもっともだった。
孔明と相談し、火を使わない昼の旗、夜の遮光灯、岸から鳴らす鐘を組み合わせた。
龐統は試験の記録を読み、わざと誤った合図を一度混ぜた。
半数の船が動かなかった。
「動かなかった方が正しい」と龐統は言った。
「分からない合図で動かぬ訓練をしなさい」
派手な新兵器より、その一言が兵を守ることもある。
戦の前夜、船員の若者が修理箱を抱えてきた。
「この絵、縄と蛇を間違える奴がいる」
俺は箱を見て赤面した。
急いで描いた絵が、たしかに蛇に見える。
職人と一緒に印を描き直し、実物を横に置いて確かめた。
孔明はそれを見て、「命令も同じです。伝わらぬ命令は、ないのと変わりません」と言った。
龐統は「伝わりすぎても敵に読まれます」と笑った。
二人の言葉を聞き、俺は箱の表に道具の絵、内側に使い方を書いた。
船員が笑って親指を立てた。
大軍を動かす前に、一本の縄を間違えずに取れること。
俺はその小さな確実さを信じたかった。
水路を知る漁師が、満潮時だけ通れる浅瀬を教えてくれた。
孔明はその情報を戦術に使おうとしたが、漁師は首を振った。
「そこは稚魚の集まる場所だ。船を何十隻も通せば、来年の漁が消える」
孔明は別の進路を選んだ。
勝つための近道を捨てるのも、戦を終えるための判断だった。
張飛が岸の防備を見に行くと、船頭たちは軍の荷より先に病人を運ぶ舟を出していた。
「軍の命令より大事か」と張飛が尋ねると、船頭は「この子の熱は待ってくれません」と答えた。
張飛は言い返さず、自分の馬を岸に寄せて道を空けた。
関羽は前線へ出る前、捕虜にする予定の敵船員をどう扱うか確認した。
「泳げぬ者もいる。水に落ちた者を見捨てるな」
兵は驚いたが、関羽は「赤壁では同じ川で戦った相手だ」と言った。
俺は救命用の縄を岸に増やした。
出航を控えた船着き場で、張飛は船員たちの漕ぎ方を真似てみせた。
ところが櫂を強く引きすぎ、舟が岸にぶつかりかけた。
「力任せでは進みません」と船頭に叱られ、張飛は大笑いした。
孔明は「陸の勇将も川では弟子ですね」とからかい、張飛は「ならば今日中に覚えてやる」と腕まくりした。
夜通し働いた船大工が、船腹の板を叩いて音を聞かせてくれた。
「同じように見えても、傷んだ木は音が違う」
俺には聞き分けられなかった。
職人の耳を信じ、傷んだ船を出航列から外した。
見栄えのする発明より、現場の経験が命を守る。
対岸から流れてきた小舟には、誰も乗っていなかった。
底に子供の履物が一つ残されていた。
趙雲は岸沿いを捜索し、浅瀬で舟を押していた父子を見つけた。
二人は増水を避けようとして舟を手放したのだという。
俺たちは彼らを送り届け、明日の水位を知らせる鐘を岸に設けた。
孫権の陣から、交渉に賛成した役人が職を追われたという知らせが届いた。
江東の人々が皆同じ考えではないことは知っていたが、賛成するだけで生活を失う者がいるとは思わなかった。
俺はその役人をこちらへ招こうと提案した。
孔明は首を振る。
「それでは、江東に残って話す人がいなくなります」
代わりに双方の市場を開き、役人の家族が飢えない道を探した。
すぐに答えは出なかった。
戦場なら一日で決着がつくこともある。
人の心はそうはいかない。
出航前、趙雲が船縁の縄を一本引いた。
結び目が緩んでいた。
「陸の荷車なら荷が落ちるだけで済む。川では人が落ちる」
俺は縄の点検を荷札に追加した。
関羽は無言で自分の船の結び目を確かめに行った。
出航の合図を待つ張飛の前へ、江東から流れてきた小舟が着いた。
乗っていたのは負傷した漕ぎ手だった。
「敵の船だぞ」と兵が槍を向ける。
張飛はその槍を押し下げ、「船の色より先に傷を見ろ」と言った。
救護所へ運ばれる男は、張飛の大きな背中を見つめていた。
戦が始まる前に救えた命が一つあった。




