第百十二章:孔明は火薬を使わず、敵の水門を奪った
水門を取り戻したあと、下流の村では畑の水がまだ戻らなかった。
俺たちが安全を優先して開閉を遅らせたためだ。
村長は「村を沈めなかったことには礼を言う。だが苗が枯れれば冬に子供が飢える」と告げた。
俺は勝利の報告を一日遅らせ、工兵とともに泥を掻き出した。
孔明も靴を脱いで水路へ降りた。
兵たちは軍師が泥だらけになった姿に驚き、張飛は「これでは扇で泥を仰ぐしかないな」と笑った。
孔明は「将軍の声なら泥も逃げるでしょう」と返し、疲れた工兵たちまで吹き出した。
「今夜、火薬は使いません」
孔明の一言に、工兵隊の面々が顔を見合わせた。
俺が以前から改良してきた火薬は、敵陣を驚かせ、突破口を開く力を持つ。
だが江東の水門を壊せば、下流の村に水が押し寄せる。
「勝っても畑が沈むなら、勝ちとは呼べない」
孔明はそう言って、水門の図を広げた。
孫権軍は上流の水路を閉じ、こちらの船を浅瀬へ誘い込むつもりらしい。
龐統は水門を守る将が功名心の強い男だと見抜いた。
「敵を引き寄せたいなら、こちらが焦っていると信じさせればいい」
俺の役目は、浅瀬に入っても船が動けるようにすることだった。
船底の擦れを減らす木の滑り板を試し、漕ぎ手の足場を補強する。
職人は徹夜を嫌がったが、俺が工賃を前払いすると作業に入った。
「金で人を動かすのか」と張飛がからかった。
「腹が減った職人に天下の大義を語っても、釘は打てません」
張飛は笑って、炊事場から温かい汁を運んできた。
豆と菜を煮た汁に、乾燥した生姜を少し加える。
夜の川風に震える工兵たちが椀を両手で抱えた。
夜半、龐統の策でこちらの船団が浅瀬へ向かったように見せた。
実際には空の小舟を先に流し、見張りの目を引きつける。
関羽の精鋭は別の水路を歩いて進んだ。
泥に足を取られ、鎧が重い。
誰も声を上げない。
水門の守将は空舟を追わせ、門の守りを薄くした。
その瞬間、関羽が短く号令した。
剣が抜かれ、見張りの槍が落ちる。
門の上で小さな争いが起きたが、火は上がらなかった。
俺は工兵とともに駆け込んだ。
水門の木栓は古く、急に抜けば水圧で割れる。
俺たちは一本ずつ外し、少しずつ水位を戻した。
「早く開けろ!」と若い兵が叫ぶ。
「下流に村がある!」
俺が怒鳴ると、兵は唇を噛んで手を止めた。
孔明はその判断を聞き、頷いた。
「敵に勝つ速さより、民を守る速さを選んだのですね」
夜明けには水路が開いた。
孫権軍の船は、こちらが浅瀬で立ち往生していると思い込み、逆に水位の変わった支流で動きを失った。
張飛の隊が岸から迫り、敵将は船を捨てて退いた。
捕虜となった水門番は、村が沈まなかったことを知ると泣いた。
「家族が下流にいるんです」
俺は水門の修理記録に、その男の名前も書いた。
敵だったからといって、水の流れまで敵味方に分けることはできない。
水門の内側には、当番の兵が二人と、近くの村から呼ばれた水番がいた。
魏延が最初に見つけたのは、門を閉めるための縄が新しいことだった。
「急ごしらえだ。敵もこの水路を使い慣れていない」
しかし水番は首を横に振った。
「無理に開けば、下流の田が流される。俺は手を貸せない」
孔明は短く頷き、俺に水位の印を測らせた。
門を一度に開くのではなく、少しずつ水を逃がす。
黄忠の矢は灯を射落とすのではなく、見張りの頭上に結んだ合図縄を切った。
闇が深くなる前に、趙雲が水番へ声をかける。
「門を守るのも田を守るのも、あなたの仕事だろう。田を守れる開け方を教えてくれ」
水番はためらい、やがて泥のついた指で閂の順序を示した。
敵を倒すより、その指を信じる方が難しい夜だった。
水門の番人は翌日、壊れかけた歯車を見せてくれた。
「敵が来る前から傷んでいた。直す木がなかったんだ」
俺は工房に残っていた堅い木材を運ばせ、職人と寸法を測った。
軍用の木材を民の設備へ回すことに反対する声もあったが、孔明は「水路が使えれば船も動く」と言った。
歯車を替えると、門は以前より静かに動いた。
番人は嬉しそうに何度も開閉し、最後に俺へ頭を下げた。
俺は彼に修理手順を渡した。
戦場で一度だけ動けばいい道具と、毎年使う設備は違う。
使い続ける人が直せなければ、発明とは呼べないのだと思った。
修理した水門の脇に、小さな木札を立てた。
水位の印と、門を開ける順番を記した札だ。
番人は「昔は親父の勘だけだった」と笑った。
勘を否定するつもりはない。
けれど誰かが病気になっても水門を動かせるようにしたい。
俺はその願いを札に込めた。
水門の脇に立つと、川面の高さが目で見て分かった。
孔明の地図には一本の細い線しかないが、現地では泥が深く、足を取られる。
「この線の上で兵を走らせるのですか」と俺が問うと、孔明は靴底の泥を見て頷いた。
「だから走らせない。先に水を動かすのです」
工兵の親方は木栓を見せた。
「叩き込めば閉まるが、抜くとき折れる」
俺は荷車の車軸に使う金具を応用できないか提案した。
親方は試し、二度目で首を横に振った。
金具は強すぎて周りの木を割った。
三度目は薄い板を挟み、ようやく滑らかに動いた。
戦場で役立つのは、最初の思いつきより失敗を重ねた手だった。
夜が明けると、工兵を確かめるために現場へ出た。
昨日の約束が今日も守られているか、記録上の数字と目の前の景色を比べる。
下流の村のそばには、まだ片づけられていない道具が残っていた。
兵は先へ進みたがったが、俺は手を止めさせた。
「次にここを使う人が困る」
若い兵は不満そうにしながらも、道具を揃え、壊れたものを別にした。
しばらくすると水位のことを知る者がやって来て、俺たちのやり方の間違いを教えてくれた。
俺は礼を言い、作業をやり直した。
正しいつもりで進むより、間違いを教えてもらえる方がありがたい。
その晩、俺は堰の近くの村人と火を囲んだ。
水門の攻略で怖かったことを聞くと、最初は誰も口を開かなかった。
やがて一人が水に濡れない伝令札を指し、「これがあって助かった」と呟いた。
俺は大げさな返事をせず、次に備えて不足しているものを確かめた。
俺は水門の攻略の経過を振り返り、水に濡れない伝令札が誰の手から誰の手へ渡ったのかを確認した。
堰の近くの村人の名前も記録した。
手順を決めた人間だけでなく、実際に働いた人間の声を次の準備に生かすためだ。
水門の番人は、堰を開けば下流の畑が一時的に濁ると教えてくれた。
魏延は「敵の舟を止められる」と言ったが、俺は番人の言葉を孔明に伝えた。
孔明は作戦開始を半刻遅らせ、農家に知らせを出した。
「勝つために田を失っては、勝った意味がありません」
夕暮れ、下流の村で女が濁った桶を見せてきた。
知らせは届いていたが、飲み水を汲む暇がなかったらしい。
俺は兵に清水を運ばせ、翌日から上流に見張りを置いた。
作戦図には記されない小さな修正だったが、その村では誰も腹を壊さずに済んだ。




