Episode 3 外出する幽霊(その3)
寮に入ると、ちょうど白衣姿の男が出ようとしているところだった。その人物もまた、メルルの見知った人物だった。
「おや、ご両人。今から仕事かね?」
検死を担当するコジャック医師だ。年齢はすでに60歳を過ぎているのだろうか。白髪で少し背を丸めた姿で、いかにも老年の人物に見える。しかし、よく通る力強い声なので、思っている以上に元気なひとだとも思える。
「先生はお帰りですか?」
頭を下げながらレトは尋ねた。
「まぁな。ここでできることは済んだからな。今以上に詳しいことは解剖してみないとわからんし。本当は遺体も一緒にと思うんだが、あんたたちが一度も現場を見てないからな。遺体は現場に残してあるよ」
「ご配慮、ありがとうございます」
「ま、今回は、解剖の結果を待たなくてもいいかもな。正直、あれは扼殺だとほぼ確信している。ワシより先に診たやつも同じ考えじゃったわ」
「先に診た?」
「事件が起こったとき、被害者の蘇生のために呼ばれた医師じゃよ。たまたまワシの知り合いでの。診察の能力も、治療の腕前も申し分ない男じゃ。だが、首を絞められて倒れている男がいると聞いて駆けつけたんじゃが、すでに手遅れで助けられんかったそうじゃ。それでも、遺体の状況など、できるだけ調べてくれてたんじゃ。おかげで、ワシのできることはほとんどなかったわい」
「そうでしたか」
「お前さんの働きに期待しておるよ。それじゃ、またな」
そういうとコジャック医師は軽く手を振ってそのまま寮から出て行った。レトとメルルは並んで医師の背中に向かってお辞儀した。
医師を見送ると、レトはメルルに振り返った。「さぁ、現場に入ろう」
レトとメルルがノートンの部屋へ入ったとき、ノートンの遺体はまだそこに残っていた。コジャック医師の言った通りだ。
少し小太りな体格だが、身なりがきちんとしていたせいか、だらしないようには見えない。しかし、部屋の様子はやや乱雑で、机の上には本や書類が散らばっていて、それはベッドの上も同様だった。ベッドには寝巻きと思われるものや、いつ脱ぎ捨てたかわからない下着も見られた。あまり整理整頓する性格ではなかったようだ。
「この部屋の様子は、遺体発見時そのままです」
部屋に案内したフォーレスが説明した。
「あまり片づけない性格のようですね」
レトは部屋を見回しながら言った。そのまま部屋の中央まで進むと、ノートンの遺体のそばで屈みこんだ。
「どこか出かける予定だったようですね」
レトはノートンが着込んでいる服に触りながら言った。ノートンはパリッとした白いシャツに濃紺のブレザーを羽織っている。首もとに巻かれた細いネクタイは向きが歪んでいたものの、きれいな蝶結びになっていたので、本来は正しい位置で結ばれていたのだろう。
「被害者の所持品は確かめましたか?」
レトがフォーレスに顔を向けると、フォーレスは書類を持ち上げながらうなずいた。
「ブレザーに財布、ズボンのポケットにはハンカチがありました。遺体のそばに男性用のポーチが落ちていましたので、それも所持品だと考えられています」
「ポーチのなかは?」
「小銭に、チリ紙、それと櫛が入っていました。あと、折り畳み式の手鏡ですね」
身だしなみには気を遣う性格だったようだ。しかし、そこに財布とは別に小銭が入っているところに、乱雑な部屋との共通点が感じられる。
「首を正面から絞められている」
レトは小声でつぶやいた。おそるおそるレトの背後からメルルがのぞきこむと、ノートンののどに紫色した丸い点がふたつ見えた。点と言っても大きなもので、人間の親指ほどはあった。実際に、それは親指の跡で、犯人につけられたものに間違いない。のどが潰されるほど圧迫されたとき、指のあたった部分が内出血して跡になったのだ。
「位置関係が変だね」
レトは立ち上がりながら言った。メルルは首をかしげる。「位置関係が変?」
「被害者の頭は扉側に向いている。被害者は何者かに頭を殴られて床に倒れ、そのまま首を絞められて殺されたと思われる。だったら、被害者の頭は窓側に向いているんじゃないかな?」
レトは窓を指さしながら言った。寮の部屋は細長いひと部屋しかない造りで、扉を開ければ右手にロッカー、机が並び、左手は備え付けの棚にベッドが並んでいる。窓は扉の正面奥にあり、外の景色が眺められた。
メルルは頭のなかで被害者と犯人の位置関係を思い浮かべ、レトの考えを理解した。
「犯人がノートンさんを襲ったとき、犯人が扉側、ノートンさんが窓側にいたのであれば、襲われたノートンさんは窓側に倒れるでしょうね。扉側に頭があるということは、犯人が窓側、ノートンさんが扉側にいたということになります」
「どういう状況でそんなことが起こるのかな? ここは被害者の部屋なのに」
レトはそう言いながら窓に近づいた。「窓にカギはかかっていない」そう言いながら窓を開く。
柔らかくさわやかな風がスッと部屋に入り込み、扉そばに立っていたメルルのかたわらを通り過ぎた。風は扉を押し開き、廊下で様子を伺っている同じ寮の人間の姿が何人か見えた。
メルルは慌てて扉を閉めると、かんぬきをかけた。この扉は締まりが弱いらしく、閉じただけでは風の力で開いてしまうようだ。
「犯人が窓から侵入した痕跡は見つけられない」
レトは諦めた表情で窓を閉めた。「だが、侵入しなかった根拠も見つからなかった」
「ここは1階ですもんね。窓から出入りしなかったかどうか、わかりませんよね」
メルルはレトをフォローするように言ったが、レトは難しい表情のままだった。
「どうしたんです?」
「窓を開いたとき、寮を囲む樹々の間からこちらを伺う者と目が合った。ここの管理人だよ」
メルルは門のそばで、ほうきを手にこちらを睨むように見ていた老人を思い出した。
「管理人さんがどうかしたんですか?」
「こちらの様子が気になるらしい。でも、僕と目が合うとそそくさとそこから離れていった。さっき見かけたときと同じほうきを持っていた」
事件現場である寮は、老人の働き場所である。今回の事件が、彼の仕事や立場に影響を及ぼすか気になるのだろう。メルルは老人の気持ちを慮った。
「この件って、管理責任を問われることになるんでしょうか?」
「さぁ。ただの雇われ管理人に、どこまで責任を問えるのか、僕にはわからない」
――だったら、あの老人は事件と無関係でないのか?
メルルは一瞬、そんなことを考えた。寮の人間を殺したいと思っても、自分の職に悪影響を与えかねない寮内で事件を起こすとは考えにくいから。
しかし、メルルはすぐに心のなかで頭を振った。この考えはいつもレトから注意される『予断』だ。事件の捜査が進んでいない段階で、こう考えるのは早すぎる。
――それに……。
この件は、被害者の幽霊が外へ出歩いているという話がくっついている。このあたりのことも未解明なままで、何らかの結論が出せるものではないのだ。
「現場の捜査でわかることは限られてきたかな」
レトは両手をぱんぱんと叩きながら言った。「そろそろ関係者の聞き込みにかかりたいね」
「関係者には外出を控えていただき、自室で待機してもらっています」
フォーレスが進み出た。
「事件の聞き取りは、ここの医務室をお借りして行ないます。使用の許可や確認は済ませています」
こういうところがさすがだと思わせる。こちらの意図を先読みして行動できる男なのだ。
「助かります」
レトがフォーレスに頭を下げると、フォーレスは謙遜するように手を振った。
「どういたしまして。ところで、最初は誰を医務室へお連れしますか?」
「それなら、まずは遺体の発見者をお願いします」
レトは落ち着いた表情で答えた。
ノートンの部屋を出るとき、メルルは少し後ろを振り返った。
そのとき、レトがノートンの机の上から小さな紙切れを拾い上げるのが見えた。細かい字で何が書いてあるかわからない。レトはその紙切れの文字を眺めたあと、証拠品を入れる袋にそっと入れた。




