609.対立と降参
テンリが顔を離すと、タイキの体からザラリと鱗が剥がれ落ちた。タイキの体に付いている時は鋼にも劣らない強度を保つ鱗だが、その身から剥がれ落ちるとたちまち脆く砕けて、淡雪のように消え去ってしまうのだ。
タイキは焦点の合わない瞳でテンリの顔を見つめたが、すぐにトロリと瞼を閉じてテンリの胸に頭を預けるように倒れ込んだ。
「ミキタさん!」
「ミキティ!」
タイキの様子も気にはなるが、その足元に崩れ落ちたミキタの方が急を要する。意識はあるものの腕からの出血が酷く、たちまち床に血溜まりが広がって行く。それに即座に反応したのはユリとクリューで、ユリはミキタに駆け寄りながらポシェットから布と回復薬を取り出し、クリューはカウンターの下に保管してある救急箱を取る為に回り込んだ。
「ちょっとしくじっちまったよ。年は取りたくないもんだねぇ…」
「あの反応は誰にも真似出来ませんよ。傷を塞いで止血を優先します。後で治癒院に行ってくださいね」
「ああ」
苦笑するミキタの顔色は青いを通り越して白い。流れると言うよりも吹き出すに近い出血量からして、確実に動脈が傷付いている。ユリが布で強く上から傷を押さえるものの、あっという間に真っ赤になってぐっしょりと濡れてしまう。傷の中にタイキの鱗が砕けて残っている可能性が高いが、それを取り除くよりも先に止血して傷を塞がなければ命に関わると判断して、先に回復薬を使用することにした。異物を残して傷を塞いでしまった場合、後で治癒院で医師に外科的処置で取り出してもらわなければならないが、それも命があってこそだ。
傷を押さえたまま片手でユリは回復薬の瓶の蓋を外し、ミキタの口元に持って行く。ミキタは最初負傷していない方の手で受け取ろうとしたが、震えて上手く掴めなかった為差し出された瓶に素直に口を付けた。
「ちょっ…!?」
ミキタの喉が動いてしっかりと回復薬を飲んだのをユリが確認していると、不意に半ば悲鳴のようなクリューの声が聞こえた。それと同時に、思わず歯が浮くような不快な金属音が響いた。
「おいおい、いくらアンタが別嬪でも、オイラの女に手ぇ出されちゃ見過ごせねえな」
口調はいつものように軽いが、いつもより張り詰めた声色のステノスの声が続いた。
ユリはそれよりもミキタに飲ませる回復薬の量を真剣に見計らっていたので、その音は認識していたが顔を上げずにいた。
今回のミキタの怪我は回復薬のレベルを上級か中級か迷うところだったが、ユリはタイキも落ち着いたし魔獣が襲って来る場所でもないので、効き目は良いが慎重に量を調整しなくてはならない上級を選択していた。少な過ぎれば傷が塞がり切らないが、多過ぎても却って生命力を使い過ぎて治りが遅くなることもある。場合によっては悪化させる危険も伴う。
魔獣討伐などのすぐに対処して移動が必要な場合は、一気に中級を一本と増血剤を飲ませてもう一本中級を傷口に掛けて応急処置対応を選択するところだが、そんな危険のない店内での負傷なので適正な回復薬を使用した方が良いと判断した。その方が後遺症も出にくく予後も良いからだ。
ミキタに慎重に三分の二ほど回復薬を飲ませて瓶を口元から離すと、ミキタの全身から治癒が進んでいる証の白い湯気のような煙が立ち上った。肩や顔に付いたそこまで深くない傷は、すぐに塞がって完全に消えるか、僅かに赤い筋が皮膚の上に残る程度にまで回復する。腕と肩に負った深い傷は、盛大な湯気と共に出血が確実に減少して行く。この湯気が治まったくらいに残りの回復薬を傷に直接振り掛ければ、傷だけはほぼ塞がる筈だ。
そこまで見守ってからユリはやっと声のした方に視線を向けた。そこには自分の傍に大きな影が立ち塞がっていた。厚みがあって丸みのある背中に一瞬違う人物を重ねかけたが、その背中はステノスのものだった。
目の前でユリを庇うように立っているステノスの右手には真っ白な片刃の長刀が握られていて、その足元には小型の見たことのない形の武器が転がっていた。
鋭く尖った短剣の刃の部分だけのような形をして、持ち手らしきところは細く先端が輪になっている。ユリは護身術を教えてもらった際に似たような暗器を見た覚えがあるので、おそらくその輪の部分に指を掛けて扱うものだろうと推測する。
「ミキタさん、傷にも回復薬を掛けます。染みますよ」
「……ああ」
ステノス越しに足元に落ちていた武器と同じものを手にしたテンリが、片方の手でタイキを抱きかかえたままユリを見据えていた。その目は明らかに敵意を含んでいるが、今はミキタの治療を優先させることにした。テンリが何故自分に武器を向けようとしているのかは分からないが、ステノスが庇ってくれている以上は大丈夫だと優先順位をミキタのままにする。
「タイキから離れろ…」
「ミスキ!一旦退け!」
ミキタ程ではないが、やはり傷だらけのミスキが這うようにテンリの方に手を伸ばしたが、その首根っこをバートンに掴まれてテンリから距離を取らされた。ミスキもあちこちから出血しているので、その引きずられた床には血の跡が伸びる。それを見て、ミキタの方はユリに任せて救急箱を抱えたクリューがミスキの手当てに回った。
店内は、片手に意識を失っているタイキを抱え、反対の手で武器を構えているテンリを中心に、ユリとミキタを背に庇ったステノス、ミスキの手当てをしながら警戒の姿勢を取っているバートンとクリューが挟むような立ち位置になっていた。
「アンタ、さっきまでユリちゃんとは普通に話してただろうが。ことと次第によっちゃ、駐屯部隊までご足労願うぜ」
「そのお嬢さんに恨みはない。が、我が背の君が敵と定めた。私はそれを排除するのみ」
「『背の君』だぁ?さっきから聞いてりゃ妙なことばかり言いやがって。そいつと会ったのは今日が初めてだろうが」
「会えばすぐ分かる。そう託宣を受けてここまで来た。違える筈がない」
ほんの少し前まで仲良く並んでコメに舌鼓を打っていたとは思えない程、テンリとステノスの間にピリリとした緊張が走る。ステノスは滅多に刀を抜かないで舌先三寸で相手を丸め込むことが多いのだが、さすがに今回は苛立ったような気配を隠そうともしていない。
「いい加減におし!」
「ミキタさん、安静に」
その空気を切り裂くようなミキタの鋭い一喝に、テンリがピタリと動きを止めた。ミキタは傷は塞がったとはいっても、完全ではないしまだ増血剤も投与していない。ユリが止めようとしたが、ミキタは大丈夫だ、とばかりにユリの肩を軽く叩いてヨロリと立ち上がった。足元に流れた血で滑りそうになるのを堪えながら立つ姿は、服の半分が血まみれになっていることもあって異様な迫力を生み出していた。
「あたしの息子が『敵と定めた』?巫山戯んじゃないよ」
「御身に災いを齎す敵に見せる行動だ。私が間違う筈がない」
「初対面のヤツが大口叩くんじゃない!あたしはコイツをそんな恩知らずに育てた覚えはない!」
腹の底から吠えたミキタは、さすがに堪えきれなかったのか僅かに足元がふらついた。だが見開いた目は爛々とした怒りを湛え、テンリから一瞬とも逸らされないままだった。
「お前さんが探しに来たのがミキタの息子とかってのはさておき、そもそも、アンタはどうやってここまで来たんだ?」
「は?」
「一人で船を手配して、一人で海を越えて来た訳じゃねえだろ?そんでここで暮らすのも、一人の力ではなかった筈だ」
「そ、れは…」
「ミズホ国から安全な船を仕立てたのも、ムラサキがアンタを迎え入れたのも、あるご家門の後ろ盾のおかげだ。そんでオイラもここにいるこいつらも、そのご家門には世話になってる」
肩で息をしているミキタに代わって、今度はステノスがいつもの軽い口調で口を挟んだ。ステノスは相変わらず刀を構えているが、その声色はまるで世間話でも始めるかのようで、一瞬でテンリは毒気を抜かれた表情になって目を瞬かせた。どうやらステノスにしては珍しく、幾分感情的になっていたらしい。だが、ミキタの一喝でいつもの調子が戻って来たようだ。
オベリス王国で唯一、ミズホ国と交易を行うことを許されているのがアスクレティ大公家だ。だからミズホ国から渡って来るには、アスクレティ家の協力が不可欠になる。
そしてムラサキやステノスは大公家に仕える影で、忠誠を誓っている。タイキは後見人として大公家が名を連ねている為に、非常に稀少な竜種の血統でも他貴族に手出しされずに生きて来られた。その為ミキタをはじめミスキ達「赤い疾風」のメンバーも並々ならぬ恩を感じ、直属ではないが大公家の為に動くことを躊躇うことはない。
そんな彼らの目の前で、大公家の唯一の直系且つ当主レンザが溺愛している孫娘のユリに手を出すなど、絶対にあってはならないことだった。
「そのご家門のお身内がユリちゃんだ。それだけじゃねえ。特異体質のこいつに、ちゃんと効く薬を処方して来てくれたのも、だ。もしユリちゃんに何かあったら、テンリ、アンタは即日この国から叩き出されるだろうし、そいつとも二度と会わせてもらえなくなるぜ」
「それならば共に国に帰るまで」
「んなワケねぇだろ」
ギュッと無抵抗のタイキを抱きしめるようにして武器を下ろそうとしないテンリに、ステノスの声が一転低く温度のないものに変わる。それに気圧されたのか、テンリの肩がビクリと跳ね上がった。
「この国でミズホ国へ行く船が出ている港は一カ所だけだ。そいつを攫って逃げりゃすぐに掴まる」
「攫うなど…!我が君も私と共に在ることを望むのなら、国を出ることを止めることは出来ない」
「当人がそう望んだとしても、保護者の許可がなければ未成年は国を出られねえよ」
「未…成年…?」
「ナリはでけぇがまだそいつは14だ」
「「15だよ」」
ステノスの言葉に、まるで示し合わせたかのようにミキタとミスキの声が被った。ついでにステノスの右脇腹にミキタの拳がめり込んだ。普段の三分の一程度の力であったが、ステノスは小さく「うっ」と呻き声を漏らしていた。
タイキは竜種の血統のせいなのか、成長が不安定だ。数年全く成長していないかと思うと、一晩で一気に数年分成長することがあった。そのせいで、今のタイキの見た目は20代の青年に見えるのだ。
「…そんな、未成年、だなんて…」
テンリはタイキが未成年だということが余程衝撃だったのか、ステノスとミキタのやり取りには目もくれずに呆然とした様子で、手にした武器がカシャリと音を立てて滑り落ちたのだった。
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遅くなっても帰宅しないユリを迎えに、専属メイドのミリーが大公家別邸から馬車で店を訪ねて来た。
そこで店の扉を開けた瞬間、血の海の大惨事な光景が広がっていたため、ミリーは思わず悲鳴を上げていた。しかしそれでもユリを連れ帰る使命だけは忘れることはなく、大急ぎでユリの腕を掴んで「帰りましょう、すぐ!」とグイグイと店の外に出ようとした。
ミリーが護衛と共に乗って来たのは大公家の紋章の付いていない馬車ではあったが、店の前に止めるには少々不釣り合いなものであった。本当はもう少しミキタとミスキの様子を見守っていたかったのだが、身分をあまり周囲に知られたくないユリは、後をバートンとクリューに託して帰宅することにした。彼らも冒険者として長い経験を持っているので、怪我などの処置の仕方は新任の医師よりも知っている。
「後でちゃんと治癒院行ってくださいね!セイナおばさまに連絡しておきますから、絶対ですよ!」
「ああ、分かってるよ」
服や床に飛んでいる血の跡をバートンが生活魔法で浄化して、店内は何事もなかったように落ち着いた。それを確認して、ユリはミリーに半ば引っ張られるような状態で馬車に押しこめられたのだった。
「ねえ、ミリー。レターセット出してくれる?セイナおばさまに連絡入れとくわ」
「こちらに」
ミリーは座席の下からスッとシンプルな便箋と携帯用のインクが一体化したペンを取り出し、小さな台に乗せてユリに差し出した。大公家で所有している馬車には、急ぎの書簡を受け取ってすぐに返答が必要な場合に備えて必ず搭載されているのだ。
「あと、帰ったらレンさんにも手紙を書くから、すぐ準備しておいてね」
「畏まりました。レンドルフ様はもうお帰りになられたのですか」
「そうなの。あ!べ、別に私を置いて帰ったんじゃないのよ!ちょっと食べ過ぎちゃって、落ち着くまでミキタさんとこにいるって私がお願いしたから」
「そんなこと分かっております」
「え…ええと、そう、なの…?」
レンドルフのことを悪く思われないように早口で捲し立てるユリに、あっさりとミリーは納得したようだった。その呆気無さに、ユリの方が戸惑ってしまう。
「レンドルフ様は紳士ですから。お嬢様に対して最適解を選択する方だと認識しております」
「そう、なんだ」
「淑女が食べ過ぎで唸っている姿は、見ないで差し上げるのが正解かと」
「うっ…」
ミリーの言うことが的を射過ぎているので、ユリとしては返す言葉がなかった。けれど姉のように慕って頼りにしているミリーからレンドルフが認められたような気がして、不満なような嬉しいような複雑な表情をしながらペンを手に取って、セイナ宛の手紙を書き始めたのだった。




