608.背の君
フラリと階下に下りて来たタイキは、一年ぶりに会うユリの目からは少しだけ背が伸びたようだった。髪も伸びて、直前まで寝ていたので束ねていない赤い髪が肩の辺りに届いている。
「タイキ、部屋に戻ってろ」
その先に進めさせないように、ミスキが立ち塞がって押し戻そうとする。ただでさえ今も復調していない不安定なタイキと、ステノスを鉢合わせさせて騒ぎを起こすのを避けたかった。
タイキはステノスとは血の繋がりもなければ、戸籍上もミキタと二番目の夫との養子になっているので完全な無関係だ。だが慕っている兄ミスキが敵認定しているステノスは、タイキにとっても等しく敵なのだ。
「…お、前…」
「タイキ!」
タイキは階段を降りきらないままどこか焦点の合わない目でぼんやりと店内を見回し、ある一点で動きを止めた。そして次の瞬間、タイキの昼間の猫に似た細長い虹彩がキュッと針の先くらいの点に変化し、体内の魔力が渦巻いて赤い髪を炎を思わせるように逆立たせた。これはタイキが何らかの切っ掛けで我を忘れて暴走する前兆だ。
誰よりも早く気付いたミスキが落ち着かせようと手を伸ばしかけたが、触れる前にタイキの全身から透明な鱗が刺のように飛び出した。
「痛っ…!」
薄く竜種の血を引いているタイキは、興奮状態になると皮膚が硬質な鱗状に変化して体を守る。その鱗は防御だけでなく、触れる者の皮膚を切り裂く武器にもなるのだ。僅かに触れたミスキの指先が裂けて、血が点々と床に落ちた。
『ガァッ!!』
既に人とは思えない姿形に変化したタイキが吠える。それと同時に床を蹴って天井近くまで飛び上がり、カウンターを越えて店の奥のソファー席の方向へ向かって飛びかかって行った。
「タイキ!」
「やめろ!!」
タイキが向かった先には、いつもレンドルフが使っているソファ席にちょこんとユリが座っていた。ユリもまさかタイキがいきなり飛びかかって来るとは思わず、呆然と固まってしまった。そのままタイキの鋭い鱗がビッシリと並んだ腕が、無防備なユリに向かって振り下ろされようとしていた。
が、タイキの動きよりも早く、同じようにカウンターを蹴って飛び越えて、ミキタが躊躇いなくタイキの腰の辺りにしがみついた。その為ミキタの顔や腕に鱗が刺さり、周囲に血が飛ぶ。
「タイキッ!」
小柄な部類に入るミキタから一体どうやって出ているのかと思えるような低い怒鳴り声を上げると、タイキの動きが一瞬止まる。その隙を突いて、背後からミスキもタイキの腰の辺りに抱きつく。全身鋭い鱗に包まれているので、ミスキの体もあっという間に血に染まった。
『グ…ア”ァ”ァ”…』
「ユリ!」
二人にしがみつかれたまま足を踏み出すタイキに、ユリが固まっていたのはほんの僅かで、ミスキが声を上げると同時にポシェットの中から常に携帯している麻痺粉をタイキ達に向かって放り投げた。
冒険者は様々な依頼をこなす為に、常に麻痺粉や睡眠粉を無効化する魔道具を身に付けている。しかしタイキの場合はその特殊な竜の血のせいなのか、そういった魔道具を身につけると調子が悪くなる為に使用していない。それに万一暴走した際にそれで止められるという意味もあった。
今回、まず麻痺粉を使ったのは、こちらの方が動きを止めることには即効性があるからだ。完全に動きを封じるのは睡眠粉の方が有効だが、眠りにつくまでに多少時間差がある。
麻痺粉を吸ったタイキはたちまち効果が出て、ガクリとその場に膝を付いた。まだタイキから離れないミキタとミスキも一緒に床に転がる。
「眠らせてくれ!」
「はい!」
動きが鈍くなったタイキに向けて、ユリが続けて睡眠粉を使おうと薬包を手にした瞬間、カウンターの席から立ち上がった人影があった。
「近付くな!」
「テンリさん、離れて!」
立ち上がったのはテンリで、彼女は初めて目にしたであろうタイキの異形化した姿に驚きも怯えもなく、その顔には優雅な笑みまで浮かんでいた。そしてその真っ直ぐに立つ姿に圧倒されるような神々しささえあり、店内の薄暗い照明の中、一人だけスポットが当たっている錯覚さえ感じさせた。
「ようやくお会い出来ました。我が背の君…」
「背の君!?」
テンリが聞き慣れない言葉を呟きながら、スッとタイキに近寄って行く。その後ろにいたステノスには意味が分かっているのか、驚いた様子で目を見開いていた。
タイキと一緒に倒れて血まみれになりながらもまだ彼を抱きかかえたままのミキタとミスキは、近付いて来るテンリの雰囲気に圧倒されて止めるのも忘れたかのように息を呑んだ。
「お会いしたかった…我が背の君…」
女性にしてはやや低めだったテンリの声が僅かに高くなり、しっとりと濡れたような響きを帯びる。床に倒れ込んだタイキに合わせるようにしゃがみ込むと、彼女も躊躇なくタイキの頬に手を掛けた。手足に比べて鱗の鎧は薄いが、それでも刃物と同じ切れ味の尖った鱗はテンリの指先を薄く切り裂く。
タイキは麻痺粉の影響なのかそれとも別の理由があるのか、微かに身じろぎするだけで抵抗する様子はない。
テンリはこれまでに見たことがない蕩けるような笑みを浮かべて、ごく自然な仕草でタイキの口に自らの唇を重ねたのだった。
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レンドルフが目を覚ますと、見慣れているが見慣れない風景が目に入った。
目に映る壁や窓は確かに見慣れた団員寮の自室であったが、ベッドから目覚めた際に見える景色ではない。一瞬自分の状況が分からなくて体を動かすと、強張った首と背中、そしてひどく痛む頭を自覚した。
「あのまま、寝てたのか…」
体を起こして、そこで自分が机に向かったまま寝落ちていたことに気付いた。机の上に突っ伏していたのだから、見慣れない光景にもなる筈である。呟いた声もどこか掠れ気味で、こめかみの辺りにズキリと痛みが走った。
「あー…返事、出してない、な」
昨夜、ユリからの手紙を受け取って返事を書こうとしたのだが、心の動揺が響いていたのか誤字ばかりを繰り返し、一、二カ所くらいならばともかく、さすがに二桁近い間違いを消した手紙は送れなかった。それにユリに呪詛のことは絶対に知られてはいけないと気負ってしまうと、却って些細な言葉も怪しまれるのではないかと思えてペンが止まってしまった。それならば、と一日過ごして楽しかったことを書き出すと、涙が止まらずにインクを滲ませてしまう。
そうやって何度も書き直しを重ねているうちに、寝落ちてしまったようだ。ちょうど便箋を顔の真下に敷いてしまっていたらしく、書きかけの手紙は字が読めない程流れて、書かれている紙はシワシワになっていた。処分する為に手で便箋に触れると、乾いてはいたものの明らかに水が染み込んだ後のゴワゴワした手触りをしていた。レンドルフにはそれが涙なのか涎なのかは分からなかったが、まだ数枚残っていた未使用のものも駄目になっているのでまとめてゴミ箱に放り込んだ。
時計を見るとまだ朝の鍛錬に行くには早い時間だったので、急いで引き出しを探って代わりの便箋を取り出す。しかし残っているのはユリに送る用の色付きのものではなく、故郷の家族に送る為の何の飾り気もない白いものだった。これは寮の中にある購買で購入出来るもので、紙の質は良いものだが公的な書簡にも使えるようにごく薄い罫線が引かれているだけだ。
それでも他に使えるものがないし、外に買いに出るには店が開くのは随分先だ。レンドルフは仕方なくその白い便箋に向かう。
しばらくレンドルフはペンを持ったまま一文字も書けずに固まっていたが、チラリと時計を見てそろそろ身支度をしなければならない時間が迫っているので、大きく息を吐いて意を決してペンを走らせた。
レンドルフは書き上げた手紙に一度目を通す。すぐに返信出来なかった割にあまりにも短い手紙に、レンドルフの胸がチクリと痛んだが、今のレンドルフにはこれが精一杯だった。
「……ユリさん、ごめん」
手紙の内容は、昨夜のうちに返信を返せなかったことへの謝罪と、しばらく会うことが難しくなってしまったという嘘を綴ったものだ。
騎士の任務は、基本的に身内やそれに準ずる相手には大まかな内容と期間程度を知らせる以外は禁じられている。その相手でも、任務の詳細を教えてしまうと懲罰ものである。迂闊に情報が漏れて、妨害や対策を打たれることもあるからだ。レンドルフの所属している第四騎士団が主に担当している魔獣討伐や災害支援などは、詳細な道中さえ漏らさなければそこまで厳しくはない。
この任務の秘匿事項に関しては、以前ユリに説明している。だから詳細は書いていなくても、ユリならばレンドルフが何らかの任務を命じられたことと思ってくれるだろう。今のレンドルフには、ユリが誤解するように書くことしか思い付かなかったのだ。
こうして何の飾り気のない便箋とぶっきらぼうにも見える短い内容が、却って急いで知らせた印象を醸し出していて、妙な説得力を加えていた。
レンドルフは封筒に便箋を一旦詰めてから封をする直前にもう一度取り出して、自分の名前の下に「どうか、元気で」と走り書きを付け加えた。多くは語れないが、その僅かな一行に心からの祈りを込めた。
自分の髪色に似たユリ宛ての伝書鳥に手紙を託すと、レンドルフはその姿が視界から消えてもそちらの方向をしばらく見つめていた。
「必ず…助けるから…」
レンドルフの小さな呟きは、誰もいない空間に静かに溶けて行ったのだった。




