602.黒い痣と北の異変
ユリはウキウキと小指に嵌めた新しいピンキーリングを眺めながら歩いていた。隣にレンドルフがいるので、多少余所見をしていてもぶつからないようにそっとリードしてくれているから出来ることだ。
レンドルフは時折首元に手をやって、真新しい柔らかな生地の感触に微かに口角を上げていた。
当初は革紐の予定だったが、同じくらい強度を付与出来る魔蚕虫の糸を使った幅の狭いリボンを購入したのだ。魔蚕虫の糸で出来た布は非常に高価らしいのだが、切れ端を使って小物などを作っている店だったのでそこまでの金額ではなかった。
ユリがその店でリボンを見付けたとき、大変興奮してとても良いものだと薦めてくれたのでレンドルフはあっさりとそれに決めたのだ。
この魔蚕虫の生地は、最高級のシルク並みの肌触りの良さと、頑丈さと脅威の伸縮性を同時に有しているらしい。その為、万一どこかに引っ掛けても危険が少なくて済むことがユリが薦める最大の理由だった。レンドルフとしては、黒いリボンの光沢がユリの髪を思わせたのが決め手だったが、さすがにそれを口に出す勇気はなかった。
そしてそのリボンに幾つかのパターンの中から好みの図案を刺繍してもらえるということで、白の糸で雪の結晶を首の後ろに来るように控え目に一つだけ付けてもらった。身に付けていると見ることは出来ないが、ユリの属性魔法が氷魔法なので、何となく後ろを守ってもらっているような気持ちになった。
「ねえレンさん、また来ようね!」
「そうだね。今回だけじゃ全部見て回れなかったし」
日が傾いて周囲をオレンジ色に染め始めたので、人力荷車なので暗くなる前に帰ろうと馬車留めまで戻っていた。その途中でも心惹かれる店が幾つもあったが、再訪することを約束して通過した。
「危ない!」
馬車留めの直前で、不意に狭い路地から勢いよく荷車が飛び出して来た。そのままユリの方に向かって来たので、レンドルフは咄嗟に抱き寄せてユリと体を入れ替えた。
「レンさん!」
荷車はレンドルフの腰の辺りに当たって止まる。反射的に身体強化を使ったので痛みは殆どなかったが、かなり荷を積んでいたのでそれなりに重量があった。これがまともにユリに当たっていたらと思うと、レンドルフは思わず剣呑な威圧を込めて睨みつけてしまった。だがそこには誰もおらず、真っ青な顔をした商人らしき中年の小太りの男が違う方向から走って来た。
「も、申し訳ありません!荷車が勝手に!」
「きちんと止めていなかったのか?」
「い、いえ…確かに車輪の下に石を噛ませて…そ、それよりも騎士様はお怪我は…!」
「こちらは問題ない。今後は重々気を付けてくれ」
「は、はい。勿論でございます…!」
見たところ不幸な事故のようだったが、やはりあってはならないことなので自然にレンドルフの口調も厳しいものになる。商人はひたすら恐縮してレンドルフに治療費を払おうとしたが、おそらく痣にもなっていないということでその場を収めたのだった。
「レンさん、大丈夫…?」
「ごめん!許可も取らずに!」
ユリをしっかりと抱きかかえたまま移動したレンドルフは、ユリがおずおずと声を掛けてようやく状況に気付いて手を緩めた。
「ああいう時は仕方ないって。それより、レンさん本当に怪我はない?」
「…俺なら、大丈夫」
「良かった…」
そう言うとユリは自らレンドルフに抱きついて来た。体格差があるのでユリの顔はレンドルフの胸の辺りになり、回された腕は腰の辺りの服を掴んでいる。先程は咄嗟だったとは言え、レンドルフは自分から抱きかかえるのは平気でもこうして抱きつかれるとどうしていいか分からず、両手を宙に浮かせてひたすらオロオロとしていた。
「ユ、リさん…その、大丈夫だから」
「ありがとう、レンさん」
「うん、ユリさんが無事で良かった」
ユリは更にギュッとレンドルフの胸に顔を押し付けるようにして抱きつく。身体強化を使っていないユリの力は、レンドルフからすれば簡単に引き剥がせるくらいのか弱いものなのだが、それが出来ずに手は宙に浮かせたままだ。このままではユリの外聞的によろしくないという思いと、もう少しこのままでいたいという気持ちの狭間で葛藤している。
(ん?痣…?)
それでもそろそろユリに離れてもらわないと、と視線を下に向けたレンドルフは、ユリの頭頂部に何か痣のようなものが見えた気がした。髪の色と量が多いので分かりにくいが、分け目の辺りの白い地肌から何か黒いような痣のようなものが僅かに見えている。
(どこか、ぶつけた…?)
レンドルフはほぼ無意識に、その痣らしきものがある場所にそっと指で触れていた。
「レ、レンさん!?」
不意に指先で分け目の辺りを撫でられたので、ユリがビックリして顔を上げた。けれど上げたのは顔だけで、腕は相変わらずレンドルフの腰の辺りに回したまま体は離れようとはしなかった。
「あ…ご、ごめん。ちょっと、その…汚れみたいなのがあった、気がして。あ!もしかして痛かった!?」
「え?ううん、全然。やだ、いつ付いたのかしら。まだ付いてる?」
ユリは慌てて少し離れると、見えやすいように下を向いてレンドルフに頭を差し出す。今度はレンドルフもじっくりと眺めたが、それらしきものは見当たらなかった。
「何もなかった。ごめん、見間違いだったみたいだ」
「そう?良かった」
安心したようにユリが笑ったので、さっきのことは忘れることにして人力荷車に乗って戻ることにしたのだった。
(ああ、さっきの違和感はあれだったのか)
荷台にきちんと畳んだ敷物とクッションを並べて、ユリを抱きかかえて荷台の中にそっと降ろす。抱き上げた時に彼女の頭が目の前に来て、先程店先で商品を眺めている時に感じた違和感の正体にレンドルフは思い当たった。あの時も、ユリの頭頂部の分け目が少しおかしいように見えたのだ。今はそんなこともなく、何も異常は見当たらないが、あの時も痣のような黒い何かが見えたような気がしたのだ。
(きっと、たまたま髪の流れで分け目が違って、それが痣みたいに見えたんだな)
小柄なユリの側に立つと、レンドルフの視界はどうしても彼女の頭頂部が一番目に入る。これまでに違和感を覚えたことはなかったのだが、今日は人力荷車や観光船など普段では使わない移動手段を使ったので髪が乱れたのかもしれない。
「ねえ、レンさん。ちょっと人通りのないところに行ったら、私もこの前側に乗ってみたいんだけど」
ペダルを踏んで走り出したレンドルフに、予想通りユリが持ちかけて来た。
「じゃあ、行きに休憩した公園で少し試そうか」
「うん!そうしたら帰りは私が運転するね!」
後ろの荷台は頑丈な分それなりに重量があるので、軽いユリを乗せていても多少最初の踏み込みには力が必要となる。ユリはすっかりその気になっているが、今まで乗ったことがないと言っていたので少しだけにしてもらった方がいいだろう。
レンドルフは、ユリが怪我をしないように荷台には乗らずに横を並走する形にして、何かあったらすぐに抱え上げられるようにしようか、などと考えながら人力荷車を走らせたのだった。
公園に到着してユリはウキウキとレンドルフと交替したのだが、レンドルフが漕ぐことを前提にして借りていたので最も大型の人力荷車だった為に、跨がろうにも全く足が届かずに乗ることも出来なかった。
「今度、ユリさんに丁度良いサイズのを借りよう?」
「う…ううっ…届かない…」
レンドルフにそう提案されてもしばらくの間ユリはどうにかしようともがいていたが、やはりどうやっても無理だったので、ガクリと肩を落としてシオシオと荷台に戻されたのだった。
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オランジュとレミアンヌは、それぞれ署名をして互いの中間の位置に誓約魔法を結ぶ為の書類を広げて置いた。
この署名をした時点から書類に込められた魔法が発動し、最後に魔力を流すか、僅かな血液を署名のある場所に垂らせば完了になる。魔法が発動中に交わした会話は、お互いの記憶には残るが一切の他言が不可になるのだ。もし書類を用意していなかった場合、後から専門の魔法士が直接魔法を掛けることでも成立するが、術者が分かってしまうと解除の対策をとられる可能性もあるので、術者が分からない書類形式の方がより安全性が高いと言われている。
「わたくしの故郷、ヴァリシーズ王国には、次期筆頭聖女の友人がおります」
レミアンヌは少し視線を彷徨わせながら、どこからどう話そうかと迷いながら口を開いた。
「確か『聖女の清浄』を開発した大聖女様、でしたかしら」
「さすが、ご存知でいらっしゃいますね」
「ただの興味本位ですわ」
レミアンヌの同級生で親友、そして偶然にも同じ国の前世の記憶を持つ転生者仲間マリエールは、使い物にならないで破棄されるような屑魔石や、使用済みで劣化した魔石に、聖魔法を充填させて様々なことに転用出来る汎用型魔石「聖女の清浄」と呼ばれる物を作り出した。これは魔石の属性に関係なく聖魔法を充填可能にした技術で、これはヴァリシーズ王国が製造権を持ち製造方法も厳重に秘匿されている。
これは元々、前世の記憶からマリエールがヒントを得たもので、彼女曰く「互換性のリサイクルインクみたいなイメージ?」だそうだ。その「聖女の清浄」の活用目的は幅広く、水の浄化から洗濯、臭い取りや染み抜きなどの生活用品としての利用から、数粒を畑の土に混ぜ込めば土壌改良、家畜の飼料などに入れると非常に質の良いミルクが産出されるなど、利用方法は実に多種多様だ。他にも、つい川原で拾った苦悶の表情を浮かべて見える石も、隣にそれを置いて数日後には大変心穏やかな安らいだ顔になっていると評判である。
ただやはり充填には多少時間が掛かるため、作った物はほぼ国内で消費されて他国に出回ることは滅多にない。たまに国外で売りに出されるとかなりの高額でやり取りされる為、それを聞いたマリエールが「ちょっと他国に出稼ぎに行っていい?」と冗談めかして言っていた程だ。側で聞いていたレミアンヌには、その時のマリエールの目が全く冗談には思えなかったのはさておき。
「その…彼女が先日、神からの預言を授かりました。近い将来、この国で大いなる厄災が起こると」
「まあ、貴国の聖女様は未来視の能力もお持ちとは。わたくし初めて伺いましたわ」
(すいません、ただの前世の記憶です)
レミアンヌは心の中でオランジュに謝りつつ、以前遠話の魔道具でマリエールと相談して考えたことを内心ヒヤヒヤしながら慎重に言葉を紡ぐ。
レミアンヌも生まれた時から公爵令嬢として生きて来たので、本音を隠しつつ裏を読む貴族の会話のやり取りは学んで来た。だが、目の前のオランジュは年齢だけでなく経験値は遥かに格上の相手だ。迂闊なことは言えないと、頭の中で如何に整合性を付けるかを必死に考えていた。
「聖女が預言を授かったことは、本来ならば表には出してはならないと言われています。ごく限定的で曖昧なこともありますので、混乱を避ける為です」
「聖女様の御身の安全も考えれば、当然のことですわね」
「ご理解いただきありがとうございます。ただ今回に限り、その被害規模が未知数であったことと、わたくしがこちらに留学していたこともあって、密かに知らせていただいたのです」
本当はレンドルフに説明するつもりで用意していた作り話であったが、きちんと考えておいて良かったと思いながら、レミアンヌは脳内で頭に叩き込んだ台本を反芻する。
聖女マリエールは、北の国境に穢れが入り込みそこから大いなる災いが産まれる、と預言を得た。そしてその災いは、五度の大地の震えの後にやって来る、ということだった。けれどそれに該当する国は複数あり、これを公表すれば余計な混乱を招くとして密かに情報を集めていた。
そんな中、留学中のレミアンヌからオベリス王国で地震が発生したことを聞き、その預言がこの国のことではないかと気付き知らせることになった、とレミアンヌはオランジュに説明した。
「確かにこの国の可能性は高いかもしれませんが、確実とは言い切れないのではございませんか?」
そこまでレミアンヌの話を聞いて、オランジュは少々顔を曇らせて言外に「その程度で重要機密を漏らすのは軽率ではないか」と言いたげな様子を滲ませた。
「…ええ。彼女が知らせに踏み切ったのはもう一点理由がございまして、まだ候補として修行中の少女に、別の預言がもたらされたからなのです」
「別の預言?」
「はい。まだ年端も行かない少女であることで、どの程度信憑性があるかは分かりません。けれどわたくしの友人は、そこに何かを感じたようなのです。こればかりは聖女の勘…としか言い様がありませんが」
「その預言とは、どういった内容でしたの?」
オランジュの問いに、レミアンヌはここぞとばかりにグッと腹に力を入れた。前世の話は伏せつつ、今ここで彼女を説得出来なければこの先レンドルフを説得することも難しいだろう。そう思うと、自然に緊張からか背中に汗が伝うのを感じた。
「『北の聖獣』様に、異変あり、と」
その言葉を聞いて、今まで淑女の態度を崩さなかったオランジュが、はっきりと息を呑む音がレミアンヌの耳に聞こえた。




