第9話
「貴様、魔法が使えないはずではなかったのか!」
ザイラスの咆哮が、崩れかけた地下空間にびりびりと反響した。
漆黒の重装甲に覆われた巨体が、怒りと戸惑いでわずかに揺れる。俺は上段に構えた古い鉄剣の切っ先を、奴の喉元から一寸たりとも逸らさなかった。
「魔法? そんな便利なものに見えるか」
短く返し、床を蹴る。
踏み込みと同時に、刃こぼれした刀身に纏わせた闘気が一層の輝きを増した。魔力伝導率ゼロの特殊鉱石が、俺の体内で練り上げられた純粋な気と共鳴し、物理的な破壊力を生み出している。
ザイラスが巨大な戦斧を振り下ろしてきた。
空気を引き裂く轟音が耳を打つ。まともに受ければ、俺の身体など一溜まりもなくひしゃげるだろう。
だが、当たらなければ意味がない。
俺は敵の肩の入り方、足の踏み込みから、重心の移動を完全に読み切っていた。
戦斧が脳天を砕く直前、右足のつま先を軸にして半身を捻る。
鼻先数ミリを分厚い刃が通過し、石畳を粉砕した。爆発のような衝撃波が足元を襲うが、俺の姿勢は崩れない。
「チィッ!」
ザイラスが舌打ちと共に戦斧を横薙ぎに引き戻す。
その大振りの軌道には、明確な隙があった。
俺は低く沈み込み、前世から何万回と繰り返してきた素振りの型をそのまま実戦に落とし込む。
「ふっ!」
呼気と共に放たれた下からの斬り上げが、ザイラスの脇腹を捉えた。
硬い鱗が火花を散らす。だが、闘気を帯びた鉄剣は装甲の継ぎ目を的確に滑り込み、その下の肉を浅く切り裂いた。
「グオォォォッ!」
痛みに吠え、ザイラスが巨体を後退させる。
魔法という不確定要素が消え去った今、この空間を支配しているのは純粋な物理法則と極限の剣技だけだ。
質量、速度、重心。それらすべてを掌握している限り、俺が後れを取ることはない。
「ちょこまかと……! 虫けらが、我を愚弄するか!」
ザイラスの双眸が血走る。
奴は戦斧を捨て、両腕の鋭い爪を剥き出しにして襲いかかってきた。
圧倒的な膂力による、理性を欠いた乱撃。
一撃一撃が岩盤をえぐり、地下空間の柱を次々とへし折っていく。
俺は呼吸を深く保ち、完璧な足捌きで致命傷を回避し続けた。
右へ、左へ。時には後方へ跳躍し、巨体の突進をいなす。
奴の攻撃は確かに脅威だが、怒りに任せた大振りは軌道が単調だ。
「そこだ」
振り抜かれた右腕の死角に潜り込み、肘の関節めがけて剣を叩き込む。
鈍い音と共に、ザイラスの腕が不自然な方向へ曲がった。
確かな手応え。このまま削り続ければ、必ず勝機は訪れる。
◆ーーーー◆
王都の地上は、赤黒い炎と土煙に包まれていた。
市街地になだれ込んだ魔物の群れは、魔法を失い烏合の衆と化した騎士たちを次々と蹂躙していく。
だが、その絶望の只中にあって、一箇所だけ決して崩れない防衛線があった。
「ルーク、右から三体来ます!」
「了解っす、セリア殿下!」
私の声に応え、ルークが軽快なステップで前線に飛び出した。
彼の手には、先生から与えられた実戦用の剣が握られている。
魔法の才能がないと嘆いていた少年は今、魔物の大振りの爪を紙一重で躱し、その喉元に的確な突きを放っていた。
「しゃあっ!」
一体の魔物が崩れ落ちるのと同時に、私は左から迫る別の魔物へと踏み込んだ。
体内で熱い塊が渦巻いているのを感じる。
かつて『魔力酔い』と呼ばれ、私を苦しめていた原因不明の体調不良。その正体は、先生が教えてくれた『闘気』だった。
「はぁっ!」
気合と共に剣を振り抜く。
刃に纏わせた闘気が魔物の硬い外殻を容易く両断し、黒い血が石畳にぶちまけられた。
息を吐き、すぐに次の標的へと視線を向ける。
周囲の魔法騎士たちは、私たちの戦いぶりを呆然と見つめていた。
身体強化魔法が使えなくなり、重い鎧に押し潰されそうになっている彼らには、私たちが魔物を圧倒している光景が信じられないのだろう。
「殿下、息が上がってますよ。無理しないでください」
ルークが背中合わせに立ち、周囲を警戒しながら声をかけてきた。
「大丈夫です。先生の教えを思い出しなさい。無駄な力みは体力を奪うだけ……重心を低く保ち、呼吸を整えれば、まだ戦えます」
「へへっ、さすが姉弟子。言うことが先生そっくりだ」
ルークが頼もしく笑う。
私も自然と口元が綻んだ。
私たちは孤独ではない。
地下深くでは今この瞬間も、先生が元凶である大魔物と死闘を繰り広げているはずだ。
彼が必ず勝つと信じているからこそ、私たちはこの地上で一歩も引くわけにはいかない。
「来ますよ、ルーク。防衛線を死守します!」
「応!」
私たちは再び剣を構え、押し寄せる魔物の波へと飛び込んでいった。
先生が教えてくれた非魔法戦闘の極意が、私たちの命を繋ぎ、王都の未来を切り開く刃となっている。
◆ーーーー◆
「ハァッ……!」
俺の放った刺突が、ザイラスの左肩を深く貫いた。
黒い血が噴き出し、巨体が大きくよろめく。
闘気を纏った刃こぼれした鉄剣は、魔力伝導率ゼロの特性ゆえに、奴の体内に残る微かな魔力障壁すらも完全に無視して肉を裂いていた。
「ガァアアアアッ!」
ザイラスが苦悶の咆哮を上げる。
その声には、先ほどまでの尊大な響きは失われていた。
あるのは、理解不能な力に対する純粋な恐怖と、追い詰められた獣の焦燥だけだ。
剣を引き抜き、すぐさま次の連撃に移ろうと踏み込んだ。
俺の剣技は、奴の巨体と膂力を完全に封じ込めている。
このまま急所を穿てば、前世のトラウマであるこの大魔物を、ここで確実に葬り去ることができる。
確かな前進の手応えがあった。
勝利の糸口は、すでに俺の手の中にある。
だが、その時だった。
「認めん……! 我は、このような下等生物に……!」
ザイラスの全身から、どす黒い瘴気のようなものが噴出した。
それは魔法ではない。極限の怒りと生存本能が引き起こした、肉体の異常な活性化だ。
奴の筋肉が異様に膨張し、ひしゃげていたはずの装甲が内側からの圧力で弾け飛ぶ。
「死ねェェェェッ!」
ザイラスは俺を狙うのではなく、両腕を高く振り上げ、そのまま地下空間の床面へと力任せに叩きつけた。
ドゴォォォォォンッ!!
鼓膜を破るような轟音と共に、足元の岩盤が爆発したように砕け散った。
強烈な衝撃波が全方位に走り、俺は咄嗟に剣を盾にして後方へ跳躍する。
だが、破壊はそれだけでは収まらなかった。
ザイラスの狂乱の連撃は、床だけでなく周囲の巨大な支柱をも次々と粉砕していく。
天井に走っていた亀裂が一気に広がり、巨大な瓦礫が雨のように降り注ぎ始めた。
「チッ……!」
俺は降り注ぐ岩塊を剣で弾き飛ばしながら、舌打ちをした。
奴は自身の命すら度外視し、この地下空間そのものを崩落させて俺を押し潰す気だ。
足場は次々と崩れ落ち、立っていることすら困難なほどの激しい揺れが襲う。
「ハハハハハッ! 潰れろ! 貴様もろとも、この王都を瓦礫の山に変えてくれるわ!」
狂気に満ちた笑い声を上げながら、ザイラスはさらなる破壊を撒き散らす。
凶暴性を増した巨体が、崩落する地形の中で暴れ狂っていた。
逃げ場はない。
上からは無数の岩が降り注ぎ、足元は底知れぬ闇へと崩れ落ちていく。
極限の状況下で、俺は剣の柄を強く握り直した。
この崩壊する空間の中で、どうやって奴の息の根を止めるか。
脳内で無数のシミュレーションが高速で駆け巡り始めていた。




