第6話
ザイラスが怒りに任せて振り下ろした巨大な腕を、俺は最小限の動きで躱した。
直後、背後の石畳が爆発したかのように抉れ、無数の土塊が雨のように降り注ぐ。余波で近くの建物の壁が崩れ落ち、もうもうと土煙が上がった。
巻き上がる砂塵の中で、俺は刃こぼれした鉄剣を握り直し、ザイラスの胸元を睨みつけた。
手にある無数の豆やタコが、剣の柄の感触を正確に伝えてくる。
先ほどの攻撃で僅かに剥がれかけた鱗の奥。赤黒く変色した古傷。
あそこが奴の唯一の弱点だ。
だが、ザイラスも本能的にそれを悟ったのだろう。両腕を胸の前に構え、古傷を庇うような姿勢をとっている。
周囲の分厚い筋肉が異常なほどに盛り上がり、強固な肉の鎧となって俺の剣を阻んでいた。
「小賢しい真似を……!」
ザイラスが背中の禍々しい棘を逆立て、地を揺るがす咆哮を上げる。
空気がビリビリと震え、奴の全身から高密度の魔力が立ち上った。
俺は冷静に間合いを測りながら、次の一手を探る。
奴の再生能力は異常だが、あの古傷の周辺だけは明らかに治りが遅い。同じ箇所に斬撃を集中させれば、必ず突破口は開けるはずだ。
だが、問題は俺の周囲の状況だった。
視界の端で、ルークやセリア、そしてバルドが率いる私兵たちが、ザイラスの取り巻きである魔物たちと死闘を繰り広げている。
彼らの動きは悪くない。魔法という枷が外れたことで、純粋な剣術の冴えを見せ始めている。
しかし、武器の損耗が激しかった。
魔法による強化を失った通常の剣では、魔物の硬い外殻に弾かれ、次々と刃こぼれを起こしていく。折れた剣を握りしめ、肩で息をしながら後退を余儀なくされる者も出始めていた。
疲弊が戦線全体に広がりつつある。このままでは、俺がザイラスを討つ前に防衛線が崩壊してしまう。
(焦るな。俺が崩れれば、すべてが終わる)
前世の記憶が脳裏をよぎる。
誰も俺を信じず、魔法に依存しきった軍が魔物の大群に蹂躙されていったあの絶望の光景。
同じ轍は踏まない。俺は深く息を吐き、再びザイラスへと踏み込もうとした。
その時だった。
「おい、そこの若えの! 剣が鈍ってんなら、こっちへ来な!」
戦線の後方から、べらんめえ調の怒声が響き渡った。
ザイラスの爪を紙一重で躱しながら視線を向けると、煤と汗にまみれた革エプロン姿の男が、重そうな荷車を引いて前線ぎりぎりまで進み出てきていた。
トビーだ。
周囲にはまだ小型の魔物が徘徊しているというのに、彼は命がけでここまでやってきたのだ。
「親方……無茶をしやがって」
俺は思わず口の中で呟いた。
非戦闘員である彼が、こんな最前線に出てくるなど正気の沙汰ではない。
だが、トビーは周囲の魔物など意に介さない様子で、荷車に積まれた真新しい武器を次々と兵士たちに放り投げていた。
剣だけでなく、槍や斧など、様々な形状の武器が揃っている。
「魔法なんざに頼らねえ、純粋な鉄と炎の結晶だ! 俺が打ったんだ、そう簡単には折れねえぞ!」
トビーが持ち込んだのは、俺の剣と同じ、魔力伝導率ゼロの特殊な鉱石で打たれた予備の武器だった。
魔法消失による物質の劣化を一切受けず、純粋な物理的破壊力のみを伝える武器。
それを受け取ったルークや私兵たちの目に、再び強い闘志が宿る。
「すげえ……これなら、魔物の外殻も斬れる!」
「親方、感謝する!」
新しい武器を手にした戦士たちが、再び魔物の群れへと突撃していく。
疲弊し、後退しかけていた戦線が、トビーの補充によって再び強固な防衛線として持ち直したのだ。
「へっ、俺の仕事はここまでだ。あとは任せたぜ、アレン!」
トビーが俺の方を見て、ニヤリと笑う。
俺は無言で頷き返し、再びザイラスへと向き直った。
背後の憂いは消えた。これで、目の前の敵にだけ集中できる。
さらに、後方からは別の声も風に乗って聞こえてきた。
「ほらほら、しっかり食べな! 腹が減っては戦はできないよ!」
道場へと続く安全地帯のあたりから響いてくる、明るく図太い声。クロエだ。
彼女は負傷して後退してきた者たちに、干し肉と豆を煮込んだ温かいスープを振る舞い、手当てを行っているのだろう。
風に乗って、微かに肉を煮込む匂いが漂ってくる。
「あたしなんて、魔法が使えなくなった瞬間に魔法使いを諦めたんだから。あんたたちも、剣があるならまだ戦えるでしょ! 泣き言言ってないで、しっかり休んでまた前に行きな!」
「う、うむ……君の言う通りだな。私としたことが、少し弱気になっていたようだ」
クロエのあっけらかんとした言葉に答えたのは、どうやらヴィクターの声らしかった。
規律を重んじる真面目な彼が、町娘であるクロエの勢いに押され、苦笑しながら立ち上がっていく気配が伝わってくる。
直接戦闘には参加できなくても、彼女のその明るさと逞しさが、絶望の淵に沈みかけていた元魔法騎士たちの心の支えとなっていた。
(前世とは違う)
俺は剣の柄を強く握りしめた。
かつては孤独だった。だが今は、俺の背中を守り、支えてくれる仲間たちがいる。
彼らが繋いでくれたこの戦線を、俺がここで終わらせるわけにはいかない。
「よそ見をしている余裕があるのか、人間!」
ザイラスが苛立ちとともに、巨大な尾を薙ぎ払ってきた。
俺は姿勢を低くしてそれを躱し、一気に距離を詰める。
トビーが打ったこの刃こぼれした鉄剣の特性を、俺は誰よりも理解している。
魔力に干渉しないこの剣は、ザイラスが纏う異常な魔力障壁をすり抜け、純粋な物理的破壊力だけを肉体に叩き込むことができる。
「シッ……!」
呼気とともに、俺はザイラスの胸元、あの赤黒い古傷の周辺に斬撃を集中させた。
一撃、二撃、三撃。
神速の連撃が、ザイラスの分厚い鱗を削り取っていく。
奴の再生能力を上回る速度で、同じ箇所に正確に打撃を重ねる。
「ガァァァッ!」
痛みに顔を歪め、ザイラスが乱暴に腕を振り回す。
その大振りの一撃は、明らかな焦りの表れだった。
魔法を持たない人間の剣が、確実に自分の命を削っているという事実に対する恐怖。
俺はザイラスの腕を紙一重で躱し、古傷への決定的な踏み込みの姿勢に入った。
背後からは、弟子たちの剣戟の音と、彼らを支えるトビーやクロエの息遣いが聞こえるような気がした。
「俺の剣は、俺一人のものじゃない」
俺は仲間たちの想いを乗せ、さらなる加速を見せる。




