第5話
ザイラスの尊大で冷酷な声が響き渡った直後、空気を震わせるような咆哮が戦場を揺らした。
それに呼応するように、王都の城壁を乗り越えてきた無数の魔物たちが、一斉に牙を剥いて殺到してくる。
真の姿を解放したザイラスは、自ら手を下すまでもないとばかりに腕を組み、見下ろしていた。
「チッ……」
俺は舌打ちをし、刃こぼれした鉄剣の柄を握り直す。
ザイラスとの間合いを詰めたいが、群がる魔物たちが分厚い壁となって立ち塞がっていた。
一体一体は先遣隊レベルでも、これだけの数に囲まれれば足止めを食う。俺がここで手間取り、その間にザイラスが動き出せば、背後の防衛線は一瞬で瓦解してしまうだろう。
すでに奴の圧倒的な力は肌で感じている。だからこそ、一瞬の遅れが致命的な結果を招くことは明白だった。
どうやって最短距離で血路を開くか。思考を加速させ、強行突破のために地を蹴ろうとしたその時だった。
「先生! 前へ!」
凛とした声と共に、銀色の軌跡が魔物の群れを切り裂いた。
セリアだ。彼女の剣には、もはや魔法の光はない。代わりに、淡く揺らめく陽炎のような闘気が刃を包み込んでいる。
長年彼女を苦しめてきた『魔力酔い』の正体。魔法が消失したことで完全に覚醒したその力は、魔物の強固な外殻をバターのように両断していた。
彼女の動きには迷いがなく、王族としての気品すら感じさせる流麗な剣捌きだ。
「師匠の道は、俺たちが作ります!」
反対側からは、ルークが地を蹴って飛び込んでくる。
魔法の才能がないと嘆いていた少年の剣は、今や誰よりも素直で、無駄がない。俺が道場で叩き込んだ基本の型を忠実に再現し、魔物の急所を的確に穿っていく。
二人の連携は、かつて魔法騎士たちが誇っていた派手な殲滅力はない。だが、一歩一歩確実に、俺のための道を切り開いていた。
「お前ら……」
「ここは私たちに任せてください。あなたの剣が届かなければ、この国は終わる」
セリアが魔物の血を振り払いながら、俺を真っ直ぐに見つめた。その碧眼に、かつての劣等感は微塵もない。王族としての責任と、剣士としての覚悟だけが宿っていた。
「……死ぬなよ。二人とも」
短く応え、俺は地を蹴った。
セリアとルークが切り開いた血路を、一直線に駆け抜ける。
左右から迫る魔物の爪牙は、二人の剣がすべて弾き落としてくれた。
◆ーーーー◆
「陣形を崩すな! 盾を構えい!」
後方では、バルドの怒声が響き渡っていた。
歴戦の老騎士は、自身の私兵たちを巧みに指揮し、王都のメインストリートを塞ぐように強固な防衛線を構築している。
かつて最強を誇った魔法騎士たちが、魔力枯渇により次々と膝をつき、絶望に顔を歪めているのとは対照的だった。
日頃から泥臭い物理的な訓練を積んできた辺境の兵たちは、一歩も引かずに魔物の波を押し留めている。
「アレン! 背後は気にするな! 王都の奥へは、一匹たりとも通さん!」
バルドが血塗れの長剣を掲げ、俺に向かって叫ぶ。
その言葉に、俺は背中越しに片手を上げて応えた。
これで、憂いは何もない。
前世では、誰も俺の剣を信じなかった。一人で戦い、一人で絶望し、そして世界は滅びた。
だが今は違う。俺の背中を守ってくれる仲間がいる。
視線を前に戻す。
数十メートル先に立つザイラスが、不快そうに目を細めていた。
「小賢しい真似を。魔法を持たぬ脆弱な肉体で、いつまで持ち堪えられるか」
ザイラスが軽く腕を振るう。
ただそれだけの動作で、突風が巻き起こった。
俺は姿勢を低くし、風の刃をやり過ごす。同時に、足元の石畳を砕くほどの踏み込みで、一気に間合いをゼロにした。
「ふっ!」
呼気と共に、下段からの斬り上げを放つ。
魔力伝導率ゼロの特殊な鉱石で打たれた『なまくら剣』が、空気を裂いてザイラスの巨体に迫る。
だが、ザイラスは避ける素振りすら見せなかった。
ガキィィィン!
硬質な金属音が響き、俺の手首に強烈な痺れが走る。
剣撃はザイラスの腹部を覆う漆黒の鱗に直撃したが、火花を散らしただけで、浅い傷跡しか残せなかった。
「無駄だ。我が真なる鱗は、いかなる刃も通さぬ」
ザイラスが嘲笑い、丸太のような剛腕を振り下ろしてくる。
俺は剣の腹でその一撃をいなし、威力を受け流しながら後方へ跳躍した。
ドゴォォォン! と、先ほどまで俺がいた場所の石畳が粉々に砕け散る。
直撃すれば、骨ごと肉を挽き潰される威力だ。
「……確かに、硬いな」
痺れる右手を軽く振りながら、俺は冷静に息を整えた。
前世の記憶にある大魔物たちよりも、さらに一段上の防御力。まともに打ち合えば、こちらが先に体力を削り取られる。
「どうした? 威勢が良かったのは最初だけか。やはり魔法を持たぬ人間など、この程度」
「勘違いするな。俺はただ、お前の身体の構造を確かめていただけだ」
俺は再び剣を正眼に構えた。
魔法が消え去ったこの世界では、どんな化け物であろうと純粋な物理法則の支配下にある。
筋肉の動き、骨格の連動、重心の移動。
それらを観察すれば、必ず隙は見えてくる。
ザイラスが苛立ちを露わにし、連続で拳を叩き込んでくる。
一撃一撃が城壁を砕くほどの破壊力だが、大振りゆえに軌道は読みやすい。
俺は最小限の動きで拳を躱し、時には剣の鎬で軌道を逸らしながら、ザイラスの周囲を円を描くように立ち回った。
巨体が動くたびに、分厚い鱗が擦れ合う鈍い音が響く。
「ちょこまかと……! 虫ケラが!」
ザイラスの攻撃がさらに荒くなる。
だが、俺の目はザイラスの巨体を覆う鱗の並びを正確に捉えていた。
どんなに強固な装甲でも、関節部分や筋肉が大きく伸縮する箇所には、必ず微小な隙間が生じる。
そこを突く。
「はっ!」
ザイラスの右フックを身を沈めて躱した瞬間、俺は踏み込んだ。
狙うは、振り抜かれた右腕の脇下。
鱗の重なりが、ほんの一瞬だけ開いた箇所だ。
神速の突きが、その僅かな隙間に吸い込まれる。
ズブッ、という肉を裂く感触が剣を伝わってきた。
「グォォォォッ!?」
ザイラスが苦痛の咆哮を上げ、大きく後退する。
引き抜いた鉄剣の刃には、黒い血がべっとりと付着していた。
浅い。致命傷には程遠い。
だが、確かなダメージだ。
「貴様……! ただの人間が、我が肉体に傷を……!」
ザイラスの顔に、先ほどまでの余裕はない。
そこにあるのは、理解不能な事象に対する驚愕と、ほんの僅かな恐怖だった。
魔法を持たない人間の剣が、大魔物に初めて恐怖を刻み込んだ瞬間だ。
「実戦で役に立たない見栄や権威など、ただの的だ」
ザイラスは怒りに顔を歪め、背中の禍々しい棘を逆立てた。
周囲の空気がビリビリと震え、奴の筋肉がさらに膨張していく。
だが、俺の目は別のものを捉えていた。
先ほどの攻撃でザイラスが大きく姿勢を崩した際、胸元の分厚い鱗の一部が僅かに剥がれかけていたのだ。
その奥に、黒い皮膚とは異なる、赤黒く変色した古い傷跡のようなものが見えた。
(あれは……古傷か?)
前世の記憶にはない情報だ。
誰が、いつ、あんな巨大な傷を負わせたのかは分からない。
だが、あの古傷の周辺だけ、明らかに鱗の再生が遅く、防御が薄くなっている。
(あそこを突けば、あるいは……)
反撃の狼煙は上がった。
あとは、あの分厚い筋肉と鱗の奥に隠された古傷に、どうやって俺の剣を届かせるかだ。
ザイラスが再び殺意を膨れ上がらせて迫る中、俺は刃こぼれした鉄剣を静かに構え直した。




