第27話
地鳴りが完全に収まり、王都の地下から吹き上がっていた不気味な熱気も、いつの間にか肌を撫でる冷涼な風へと変わっていた。
俺は道場裏手の斜面に立ち尽くし、崩れ落ちた換気口の暗がりをじっと見つめていた。握りしめた拳には汗が滲み、指先がかすかに震えている。隣では、セリア様が乱れた金の髪をそのままに、祈るように両手を胸の前で重ねていた。
「……静かになりましたね」
セリア様の細い声が、風に乗って耳に届く。その瞳は、暗闇の奥深くを一心に見据えていた。
「ああ。全部、終わったんだよな」
俺が呟いた直後だった。ガラガラと、崩れた石材が動く乾いた音が響いた。
換気口の縁に積もっていた瓦礫が押し退けられ、土煙の中から一筋の影が立ち上がる。薄汚れた修練着を纏い、全身に煤と土埃を被った男が、ゆっくりと地上へと足をかけた。
師匠だった。
「先生……!」
セリア様の悲鳴にも似た叫びが、静まり返っていた広場に木霊した。俺の足は、考えるよりも早く駆け出していた。
「師匠! 無事だったのか……!」
駆け寄った俺たちの前に、師匠はわずかに眉を寄せ、いつものように淡々とした調子で息を吐いた。顔には擦り傷があり、衣服のあちこちが裂けていたが、その立ち姿には微塵の揺らぎもなかった。
「大声を出すな、ルーク。耳に響く」
「そんなこと言ったって! あんな化け物とやり合って、地下が崩れたんだぞ!」
「約束しただろう。必ず戻ると」
師匠は煤けた手で無造作に前髪を払うと、駆け寄ってきたセリア様に向き直った。セリア様は青い瞳に涙をいっぱいに溜めながら、その場に崩れ落ちそうになる膝を必死に堪えていた。
「先生、本当によく……ご無事で……」
「セリア、お前たちもよく持ちこたえた。地上の魔物は粗方片付いたようだな」
師匠のその一言を聞いた瞬間、周囲を取り囲んでいた避難民たちや防衛部隊の兵士たちの間に、波紋のように声が広がっていった。
誰かがぽつりと「討伐したのか」と漏らした。それが次の瞬間には巨大な波となって膨れ上がり、広場全体を震わせる割れんばかりの歓声へと変わった。
「勝ったぞ!」「あの大魔物が倒されたんだ!」「俺たちは助かったんだ!」
抱き合って涙を流す者、膝をついて天を仰ぐ者。魔法が使えなくなり、絶対の絶望に突き落とされていた人々が、ただ一人の男の生還によって解き放たれたのだ。
熱狂の渦の中で、師匠は騒ぐ群衆に目をくれることもなく、瓦礫の陰からよろめきながら歩み寄ってきた一人の小柄な男へと視線を向けた。
「おい、トビー」
呼ばれた鍛冶職人のトビーは、煤で真っ黒になったエプロンを握りしめ、怯えるように師匠を見上げていた。
「アレン……旦那。その、腰のやつは……」
師匠は無言で腰の鞘に手をかけた。金属が擦れ合う微かな音と共に、抜き放たれた古い鉄剣が白日の下に晒される。
魔法を一切通さない、何の装飾もないただの鉄の塊。かつて宮廷の魔法騎士たちから、時代遅れの鈍らだと散々に嘲笑されたあの剣だ。
師匠は切っ先を下げ、トビーの目の前に刀身を掲げて見せた。
「見ての通りだ。魔導具でもない、ただの鉄の剣が、あの怪物の装甲を断ち切った。刃こぼれ一つ起こさずにな」
トビーは震える指先を伸ばし、恐る恐る刀身に触れた。幾重にも打ち直され、過酷な激戦をくぐり抜けたはずの刃には、目に見える傷一つ残っていなかった。朝の光を受けて、鋼の肌が静かで力強い輝きを放っている。
「嘘だろ……あんな、山みたいな化け物を相手にして……一欠けらも欠けてねえ……」
トビーの唇が激しく震えた。大粒の涙が、煤で汚れた彼の頬を伝って地面へと落ちていく。
「俺の打った剣が……旦那の手で、本当に世界を救っちまったのかよ……」
「お前が打ったからだ。余計な小細工を捨てて、硬さと粘りだけを極限まで突き詰めたからこそ、この剣は最後まで折れなかった」
師匠はそう言って、トビーの肩をぽんと叩いた。無骨で飾らない師匠なりの賛辞に、トビーは顔を両手で覆い、子どものようにしゃくりあげて泣き崩れた。
俺はその光景を胸が熱くなる思いで見つめていた。魔法という便利な力に頼りきり、地道に積み上げる技術や肉体の鍛錬を馬鹿にしていた世界が、いま完全に覆されたのだ。
そのとき、歓声に沸く群衆を押し分けて、二つの人影が近づいてきた。
背筋を凛と伸ばした老女モーガンと、重厚な鎧を纏った巨躯の武人バルド辺境伯だった。
「アレン殿」
モーガンが進み出て、いつもは冷静沈着なその顔をわずかに強張らせながら、師匠の前に立った。彼女の後ろに控えるバルドも、険しい表情のまま師匠を真っ直ぐに見据えている。
「地下での激闘、この耳にも届いておりました。まさか、あの災厄の巨獣を単独で討ち取られるとは……」
「王都の地下盤が持ちこたえたのは幸いだった。お前たちが地上で残党を食い止めてくれたおかげだ」
師匠が淡々と応じると、バルドが低く唸るような声を漏らした。
「滅相もない。我らは貴殿が切り拓いた道の上で、ただ必死に剣を振るったに過ぎん。……魔法を失い、無力感に打ちひしがれていた我らに、戦う術を示してくれたのは貴殿だ」
言うが早いか、歴戦の猛者であるバルドが、腰の佩刀を外して地面に置き、片膝をついて師匠へ深く頭を下げた。
続いて、常に王家の誇りを胸に抱き、容易に他者へ屈することのなかったモーガンまでもが、師匠の前で深々と腰を折った。
「かつて貴殿の言葉を疑い、その剣を軽んじた己の不明を恥じるばかりです。ルミナス王国を、いいえ、この世界に生きるすべての人類を救っていただいたこと、心より感謝申し上げます」
王国の重鎮である二人が、一介の剣士に過ぎない師匠に対して、最大の礼を尽くして頭を垂れていた。周囲の兵士たちも、息を呑んでその光景を見守っている。
だが、師匠は誇るでもなく、尊大に振る舞うでもなかった。ただ静かに剣を鞘へと納めると、二人に告げた。
「頭を上げろ。俺は救世主になるために剣を振ったわけじゃない。ただ、奪われるのが嫌だったから抗っただけだ」
「それでも」と、セリア様が一歩前に進み出た。その瞳には、揺るぎない敬意と温かな光が宿っていた。
「先生が示してくださったのは、単なる勝利ではありません。魔法が消え去ろうとも、人は自らの足で立ち、鍛え上げた肉体と技で未来を切り拓けるという、生きていくための希望です」
セリア様の言葉に、師匠は珍しく言葉を詰まらせたように視線を逸らし、小さく息を吐いた。
「……お前も、随分と達者に喋るようになったな」
「ふふ、先生の弟子ですから」
セリア様が誇らしげに微笑む。その笑顔には、王族としての重圧から解き放たれたような、一人の少女としての無邪気さが混ざっていた。
俺は師匠の少し猫背な背中を見つめた。
魔力がないと嘲笑われながらも、ただ愚直に木刀を振り続けた日々が、いまこの結末を手繰り寄せたのだ。
その背中が、いまは誰よりも大きく、頼もしく見えた。
魔法という奇跡が消滅した世界。だがそれは、決して絶望の始まりではなかった。人間が本来持っている強さを取り戻し、自らの手で歩み出すための、新しい時代の幕開けだったのだ。
ふと見上げると、王都を覆っていた夜の帳が静かにほどけ始めていた。
東の地平線から、澄み渡った朝の光が差し込んでくる。崩れた街並みを、立ち尽くす人々を、そして俺たちの未来を照らし出すように、静かで美しい夜明けが広がっていた。




