第26話
崩落の轟音が、鼓膜を容赦なく揺さぶっていた。
頭上の岩盤が裂け、巨大な石塊が次々と足元へ叩きつけられる。砕け散る砂利が肌を打ち、視界を白く濁らせた。地下水路の天井を支えていた太い柱には無数の亀裂が走り、いつ全壊してもおかしくない。
「無駄だ、無駄なのだ人間! 貴様ごときが抗ったところで、この圧縮された生命の奔流からは逃れられん! 王都もろとも塵芥と化すがいい!」
膨張を続けるザイラスの肉体から、凶悪な熱波が波状に放たれていた。
黒い装甲の隙間という隙間から漏れ出す光は、すでに地下空間の隅々まで赤黒く染め上げている。熱せられた空気が肺腑を焼き、立っているだけで全身の水分が奪われていく。
だが、逃げ惑う理由などどこにもなかった。
かつて全てを失ったあの日の俺には、為す術がなかった。ただ崩れゆく街を背に走り、守るべき人々が瓦礫に飲まれる光景を、絶望と共に瞳に焼き付けることしかできなかった。
あの無力さは、この身に深く刻まれている。
だからこそ、俺は今日まで鉄を振り続けてきたのだ。
足元へ落ちてきた岩の破片を、革靴の底で強く捉えた。
沈み込む重心を反発力へと変え、前方へ跳ぶ。落下する瓦礫の軌道を最小限の首の動きで見切り、空中を滑るように距離を詰めた。
「なっ……前へ来るだと!? 死に急ぐ気か!」
ザイラスの複眼が見開かれ、剥き出しの牙が引き攣る。
熱気の奔流を押し分けながら、俺は古い鉄剣を中段に構えた。手元に伝わるのは、無機質で冷徹な鉄の重みだけだ。
◆ーーーー◆
王都の地上、道場の裏手に位置する広場は、異様な緊迫感に包まれていた。
足元から伝わる激しい地鳴りに、ルークは何度も足を取られそうになりながら、地面にしっかりと両足を踏ん張った。周囲の草木が激しく揺れ、地割れの間から薄暗い煙が立ち上っている。
「くそっ、地下で何が起きてるんだ……! こんな揺れ、普通の戦いじゃないぞ!」
ルークは剣の柄を握りしめ、古びた換気口の鉄格子を凝視した。
奥底から噴き出してくるのは、肌が焦げ付くような熱気と、禍々しい気配の残滓だ。魔力が消え失せたはずのこの世界で、あれほど強烈な圧力を放つ怪物が、地下で最後の暴走を始めているのは明白だった。
「落ち着け、小僧。取り乱したところで地面の下には手が届かねえよ」
隣で煤だらけの腕を組んでいたトビーが、野太い声で短く吐き捨てた。
分厚い革エプロンを身に纏った鍛冶職人の顔には、いつもの飄々とした笑みはない。だがその双眸は、地下から響く振動の波を正確に測るように細められていた。
「でも親方! あの換気口から吹き上がってる熱気、尋常じゃないですよ! 先生一人で、あんな化け物の自爆に巻き込まれたら……!」
「おいおい、誰の打った獲物だと思ってやがる」
トビーは懐から煙管を取り出そうとして手を止め、不敵に口元を吊り上げた。
「あの鉄剣には、魔力なんぞという軟弱な細工は一切施しちゃいねえ。ただの鉄を、炎と槌で極限まで叩き締めただけの純粋な塊だ。どんな魔の熱に晒されようが、あの男の振るう力に耐えきれずに折れるようなヤワな仕事はしてねえよ」
職人の頑固な矜持がこもった言葉に、ルークは息を呑んだ。
トビーの視線は、揺らぐ大地など意に介さず、ただまっすぐに地下の暗闇を貫いていた。
「あの野郎はな、魔力が消える前からずっと、世界中の誰よりも泥臭く身体を鍛え上げてきたんだ。いまさらあんな化け物の道連れなんぞに付き合うタマかよ」
「……そう、ですね。先生が負けるわけがない」
ルークは胸の前に手を合わせるようにして、細く息を吐いた。
言葉にするだけで、冷え切っていた指先に確かな熱が戻ってくる。自分たちに剣の握り方を教えてくれた男の背中が、決して折れないことを誰よりも知っているのは自分たち弟子だった。
換気口の奥から、空気を引き裂く鋭利な風切り音が、微かに地上まで届いた。
◆ーーーー◆
赤黒い閃光の奥で、暴走する熱量が激しく渦を巻いていた。
ザイラスの肉体はすでに原形を留めず、核を中心とした熱の塊と化している。あと一秒、いや刹那の後には、臨界に達した破壊エネルギーが全方位へ解き放たれるだろう。
だが、その中心には明確な歪みがあった。
魔力という外付けの力に頼り、自らを無理やり膨張させた肉体には、力学的な綻びが生じている。力の一点への集中がなく、ただ膨れ上がっただけの塊など、恐れるに足りない。
俺は息を深く吸い込み、雑音のすべてを意識から締め出した。
崩れ落ちる瓦礫の音も、怪物の断末魔のような叫びも、遠い海の底の出来事のように遠のいていく。
研ぎ澄まされた感覚の中で、怪物の体内を巡る力の奔流が一本の線として見えた。
胸の中心部、かつて硬い外殻で守られていた急所。そこから全身へと放射状に広がる破壊のエネルギーが、まさに炸裂しようと脈動している。
踏み込みは音もなく、ただ滑らかだった。
右足の親指で地を捉え、膝の抜きと共に体重を前へと乗せる。無駄な力みは一切ない。何百万回と繰り返してきた素振りの軌道を、ただ寸分違わず再現する。
「死ねぇぇぇっ、人間んんんッ!」
ザイラスの絶叫が空間を震わせた。
振るわれた鉄剣の切っ先が、空気を音もなく切り裂く。
それは魔法の光を纏うこともなく、派手な衝撃波を撒き散らすこともない。ただ極限まで速く、重く、正確に放たれた鋼の刃。
刃先が怪物の中心核へと吸い込まれる。
手応えは、驚くほど静かだった。
分厚い筋肉も、熱暴走を起こした細胞も、まるで最初からそこになかったかのように、一筋の銀線が通り抜けていく。力の流れに沿って滑り込んだ刃は、暴走するエネルギーの結合そのものを断ち切っていた。
切り抜けた身体が、怪物の背後へと着地する。
ザイラスの動きが、唐突に静止した。
膨張していた肉体の表面を、一筋の細い光の亀裂が縦に走る。
「な……ぜ、だ……。我が、魔の頂が……ただの、鉄の棒切れに……」
怪物の呟きは、困惑の色を残したまま途切れた。
左右に両断されたザイラスの巨躯が、内側から崩壊を始めた。
圧縮されていた熱エネルギーは暴発することなく、切り口から細かな粒となって霧散していく。赤黒い蒸気が吹き抜け、地下の空気を冷ましながら、大魔物の残骸は砂となって消滅していった。
崩落の連鎖が止まる。
頭上から降り注いでいた瓦礫の雨は止み、地下水路には静かな水の流れる音だけが戻っていた。
俺は右手に提げた鉄剣を静かに振り下ろし、切っ先を地面へ向けて残心をとった。
刃こぼれだらけの刀身には、血の一滴すら残っていない。ただ、地下水路の天井の裂け目から差し込む一筋の陽光を反射して、鈍く光っていた。
胸の奥底で、長い間燻っていた冷たい塊が、ようやく溶けて消えていくのを感じた。
あの日、守れずに終わった無念も、繰り返されるはずだった滅亡の光景も、確かにこの手で断ち切ったのだ。
息を整え、剣を腰の鞘へと納める。
カチリと鳴った小さな金属音が、静寂に包まれた地下空間に心地よく響いた。
見上げれば、崩れた天井の隙間から、青く澄み渡った地上の空が覗いている。
そこからは、聞き慣れた弟子たちの声や、復興へ向けて動き出す街の喧騒が、微かに届き始めていた。
俺は瓦礫の山に足をかけ、光が差し込む地上へと向かって、ゆっくりと歩みを進めた。




