第25話
踏み出した一歩は、水面を滑る小石のように静かだった。
視界を埋め尽くす凶悪な漆黒の爪が、空気を切り裂きながら眉間へと迫る。暴風のような圧力。わずかでも重心がぶれれば、頭蓋ごと粉砕される間合いだ。
だが、極限まで研ぎ澄まされた感覚の中では、その凶弾のような速度すら奇妙なほど緩やかに見えていた。
軌道は読めている。敵の全体重が右の前肢に乗った、まさにその刹那――。
俺は首をわずかに傾け、爪の切っ先を紙一重でかわした。
頬の産毛が鋭利な風圧で削ぎ落とされる。
すれ違いざま、体勢を低く沈めながら、腰の回転をすべて両腕へと伝導させた。手元にあるのは魔力を一切宿さない、ただ硬度と質量のみを突き詰めた古びた鉄剣。
狙うべきは、装甲を自ら剥ぎ取って露わになった、胸元中央の生々しい筋肉の結節点だ。
「断ち切る……!」
短く呼気を吐き出し、刃を押し込むように突き立てた。
ズブ、と硬質な肉を割く鈍い感触が、柄を伝って掌の豆へと直に響く。
強靭な筋繊維が悲鳴を上げて裂け、鉄の切っ先は寸分の狂いもなく心臓の真横にある太い血脈を捉えていた。
「――ぐ、オッ……!?」
ザイラスの喉から、押し潰されたような濁った呻きが漏れる。
巨大な質量が持つ突進の運動エネルギーをそのまま利用し、俺は柄を握り締めたまま身体を軸にして敵の背後へと回り込んだ。
深く抉り込まれた傷口から、ドス黒い血液が噴水のように吹き上がる。
着地と同時に、地下水路の床が激しく震えた。
かつて王国を恐怖で支配した大魔物の将軍が、突進の勢いを制御しきれず、前のめりに崩れ落ちていく。
湿った石畳の上を激しく滑り、巨大な石柱へと激突してようやくその巨体が止まった。石柱には蜘蛛の巣状の亀裂が走り、天井から無数の小石がパラパラと降り注ぐ。
手応えは確かにあった。致命の深さまで刃は届いている。
俺は剣を構え直したまま、荒い息を整えるために肺へ冷たい地下の空気を送り込んだ。
◆ーーーー◆
地上に広がる王都の大通りは、混沌と硝煙に包まれていた。
「ひっ、あ、ああっ……! 来るな、来るなぁッ!」
豪奢な装飾が施された鎧を泥に塗れさせ、無様に石畳を這い回っているのはガストンだった。
かつて魔法至上主義の頂点に君臨し、他者を虫けらのように見下していた傲慢な面影は、どこにもない。
彼の目の前にいるのは、かつてなら初級の火炎魔法一発で消し炭にできたはずの、小柄な四足歩行の魔物だった。
だが、世界から魔法が完全に消失した今、彼の指先からは火花一つ散らない。
「なぜだ……! なぜ魔法が出ん!? 俺は選ばれた魔法騎士団の長だぞ! こんな下等な獣ごときに、この俺が……!」
ガストンは腰の儀礼剣を震える手で抜こうとしたが、重すぎる装飾が仇となり、鞘から抜け落ちて地面を転がった。
魔物が低く唸り声を上げ、唾液を撒き散らしながらガストンの喉元めがけて跳躍する。
死を確信したガストンは、顔を覆って目を固く閉じた。
硬質な金属音が、甲高く大通りに響き渡った。
魔物の胴体が斜め一直線に両断され、血飛沫を上げながら左右に転がり落ちる。
その背後に立っていたのは、返り血を一滴も浴びることなく、無骨な軍用剣を正しく構えたヴィクターだった。
「……立て、ガストン殿」
ヴィクターの声は冷徹で、軍人としての規律に満ちていた。
額には汗が光っていたが、その立ち姿には一点の揺らぎもない。
「ヴ、ヴィクター……? お前、その力は……魔法を使ったのか? まだ魔力が残っていたのか!?」
縋り付くように見上げてくる元上司に対し、ヴィクターは静かに首を横に振った。
その瞳には、もはや過去の権威に対する盲従はなく、ただ冷厳な現実を見据える光だけが宿っている。
「魔法など使っていません。ただ、鍛えた腕で、刃の筋を正しく通して振り下ろしただけです」
「ば、馬鹿な……! 魔法のない剣など、ただの鉄の棒ではないか! そんなもので魔物が斬れるはずが……!」
「斬れるのですよ、現実に」
ヴィクターは剣の血糊を素早く払い、冷ややかな視線を地面の男へと向けた。
「アレン殿がずっと示し続けていた道理です。己の肉体を鍛え、泥に塗れて積み上げた技術だけが、この理を失った世界で人を護る力となる。それを嘲笑い、怠惰に魔法の特権の上にあぐらをかいていたのは……我々の方だったのです」
「あ……」
ガストンの口から、情けない空気の抜ける音が漏れた。
周囲を見渡せば、アレンの道場で基礎を叩き込まれた若い衛兵たちが、無駄のない連携と剣術で次々と魔物の群れを押し返している。
魔法という後ろ盾を失い、ただの無力な男へと成り下がった現実が、容赦なくガストンのプライドを粉砕した。
男は力なく項垂れ、泥水の中へと両膝を落とした。
◆ーーーー◆
地下空間に、異様な金属軋みのような音が木霊していた。
壁に激突したザイラスが、軋む関節を鳴らしながらゆっくりと起き上がってくる。
胸元からは黒い液体が絶え間なく溢れ出し、足元に深い水たまりを作っていた。
「なぜだ……」
大魔物の口から漏れ出たのは、激昂ではなく、信じがたいものに直面した時の困惑だった。
「なぜ、貴様のような魔力を持たぬ矮小な生き物の刃が……我が肉体を裂く? あり得ぬ……魔力という絶対の理を持たぬ攻撃など、蚊の刺した程度であるはずだ……!」
ザイラスの紅い瞳が、恐怖に激しく揺らいでいる。
それは傷の痛烈さゆえではない。自らが絶対と信じて疑わなかった世界の理が、目の前の男の純粋な剣術によって完膚なきまでにへし折られたことに対する、根本的な絶望だった。
「理など最初から存在しない。お前たち魔物も、地上の人間も、魔法という都合のいい力に寄りかかりすぎていただけだ」
俺は間合いを保ったまま、刃先を敵の咽喉へと向け続ける。
「魔法が消えれば、残るのは肉体と、それを動かす意志だけだ。それすら鍛えてこなかったお前が、俺に届く道理がない」
「黙れぇぇッ!」
ザイラスの咆哮が、地下空洞の石壁を震わせた。
しかし、その声には先ほどまでの覇気はない。追い詰められた獣の、無様な絶叫に過ぎなかった。
敵は自らの胸の傷口に鉤爪を突き立てると、残された生命力を乱暴に掻き回すように抉った。
傷口から噴き出す黒い体液が、赤黒い蒸気へと変化し、周囲の気温を一気に跳ね上げる。
「認めぬ……! 我が、人間などに、魔力なきゴミに敗れるなど断じて認めぬ! ならばすべて道連れだ……! 貴様も、この王都の地下も、我が命のすべてを以て圧壊させてくれるッ!」
ザイラスの巨躯が、内側からの圧力に耐えかねるように異様な膨張を始めた。
皮膚の下で血管が太い蛇のようにのたうち回り、肉体が風船のように膨れ上がっていく。
体表のひび割れからは、危険な熱気を帯びた光が漏れ出していた。
自爆――己の全肉体と生命力を暴走させ、周囲一帯を吹き飛ばす捨て身の術理。
地下空間全体が、悲鳴のような振動を上げ始めた。
頭上の岩盤が軋み、換気口から差し込んでいた光の筋が、崩落する砂煙によって遮られていく。
この規模の崩壊が起きれば、地下水路はおろか、地上の王都中心部まで丸ごと陥没しかねない。
だが、俺の足は一歩も退いていなかった。
膨張する怪物の中心、その熱源の奥底にある核を見据え、俺は静かに腰を落とした。




