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第24話

視界の端から迫る黒い爪先を、俺は半歩だけ身体を捻って受け流した。


甲高い金属音が地下空間に反響し、削り取られた鉄粉が火花となって散る。

頸動脈のわずか数ミリ外側を通過した爪風が、首筋の皮膚をちりちりと灼いた。


「ちっ、浅いか……!」


頭上から吐き捨てられた声と共に、黒い影が反転する。

装甲を自ら引き剥がしたザイラスの巨躯は、先ほどまでの重厚な威圧感を完全に脱ぎ捨てていた。剥き出しになった筋繊維が赤黒く脈打ち、地下水路の湿った空気を断ち切る。


大魔物は着地と同時に石床を蹴り抜いた。

乾いた破砕音が響いたときには、すでにその姿は視界から消えている。


右、左、天井、背後――。

四方八方の壁や石柱を凄まじい脚力で蹴り跳び、軌道を幾重にも歪めながら肉薄してくる。

質量を持った風圧が前後左右から同時に叩きつけてくるような錯覚を覚える。


「消え失せろ、羽虫が!」


左上方からの刺突。

俺は剣身を斜めに立て、突進の威力を滑らせるように逸らした。

ずしりと重い衝撃が手首を伝って骨を軋ませる。だが、受けた力をそのまま回転の勢いに変え、擦れ違いざまに敵の脇腹へ刃を走らせた。


刃先が分厚い肉を裂き、黒い血が飛沫を上げる。

だが浅い。骨に届く前に、奴は反対側の石柱を蹴ってすでに離脱していた。


「ぐッ……調子に乗るなよ人間が!」


怒声が空間を震わせる。

ザイラスの攻撃は、もはや技術や戦術の域を超えていた。

自らの身体が負荷で壊れることすら厭わない、純粋な殺意と運動エネルギーの塊だ。

石柱を蹴るたびに石材が弾け飛び、水路の水面が爆風で激しく波打つ。


人間ならとっくに肉体が悲鳴を上げ、自壊しているはずの速度だった。

だが、奴の強靭な骨格と生命力は、その過負荷に耐えきっている。


(速いな……だが)


俺は一度深く息を吸い、足裏の感覚を確かめた。

地下水路の滑りやすい石畳、わずかな傾斜、空気の流れ。

視覚だけに頼れば、この速度には到底追いつけない。


目指すのは、速さで張り合うことではない。

どれほど敵が高速で跳ね回ろうと、攻撃の瞬間に奴が選択できる軌道は、常に最も効率的な直線に限られる。


正面から飛び込んできた右爪を、わずか数センチ頭を傾けて躱す。

空を切った爪が俺の背後の石壁を抉り、粉塵が舞う。

その隙を見逃さず、俺は踏み込んで袈裟斬りを放った。


ザイラスは空中で無理やり身体を捻り、左腕の肘打ちで俺の剣の腹を叩いて軌道を逸らしてきた。

鈍い打撃音が響き、互いの間合いが再び離れる。


「ハッ、捉えきれんか! 我が肉体は極限を超えた! 貴様のその鈍重な太刀筋など、当たるはずもない!」


石柱から天井へと目まぐるしく跳ね回る影から、嘲笑が四方へと乱反射する。


だが、俺の心は驚くほど静まり返っていた。

前世のあの暗闇の中で、圧倒的な暴力に蹂躙された記憶が、冷徹な分析の材料として脳内に展開される。

あのときは、身体強化魔法が消えた途端に何もできなくなった。

だが今は違う。魔法など最初から頼っていない。この足で立ち、この腕で振るってきた積み重ねだけがここにある。


荒れ狂う暴風の中心で、俺は立ち止まり、切っ先をわずかに下げた。



肺の奥が焼けるように熱い。

酸素を求めて喉が鳴り、全身の筋肉が小刻みに震えを訴えていた。


死に戻りをしてから五年間、一日たりとも休まずに振り続けてきた肉体だ。

それでも、大魔物の将軍が放つ全力の猛攻を捌き続ける負荷は、確実に限界を削り取っていた。


対するザイラスもまた、決して無傷ではない。

装甲を捨てて無理な機動を繰り返している代償として、奴の筋繊維からはプシューと赤黒い蒸気が吹き出していた。

跳躍の着地ごとに、足元の石畳を踏み抜く深さがわずかに増している。


「ゼェッ……ハァッ……!」


奴の荒い呼気が、地下の湿気と混ざり合って響く。

互いに残された体力は、もう残り少ない。


俺は意識を一段、深く沈めた。

極限まで張り詰めた集中の中で、周囲の音がすっと遠のいていく。

換気口の上から注ぐ微かな光の粒、舞い散る石粉の落ちる速度、水滴が水面に落ちて波紋を広げる周期――すべてが引き伸ばされたように緩やかになっていく。


視界が、異様なほど澄み渡った。


超高速で壁を蹴り、残像を引いて跳躍するザイラスの姿。

目まぐるしく変化するその残像の奥に、確固たる一つの「線」が見え始めた。


身体をいくら激しく動かそうと、どれほど手足を振り回そうと、推進力を生み出す根本には必ず「重心」が存在する。

次の一歩を踏み出すため、力を溜める瞬間。

方向を転換するため、骨盤が傾く角度。


(見えた)


それは、魔力探知のような曖昧な感覚ではない。

何十万回、何百万回と自分の身体と向き合い、重心の移動を制御し続けてきたからこそ理解できる、物理的な必然の軌跡だった。


ザイラスが次に壁を蹴る位置。

そこから俺の首を刈り取るために描くべき、最短の放物線。

そのすべてが、あらかじめ空間に引かれた白線のように、俺の網膜へ鮮明に焼き付けられていく。


「無駄だと言っているのが分からんのか! 死ねぇッ!」


頭上の天井を両足で蹴り砕き、ザイラスが急降下してくる。

両腕の爪を交差させ、俺の頭上から全身を両断せんとする必殺の爪撃。


俺は動かない。

頭上から叩きつけられる衝撃の直前まで、ただ呼吸を整え、脱力したまま待った。


そして、爪の切っ先が前髪を掠める直前――。

わずかに右足を半歩引き、上体を紙一重で傾けた。


轟音と共に、ザイラスの両爪が俺の足元の石畳を深々と粉砕する。

吹き荒れる破片と突風の中、俺は敵の懐へすれ違いざまに潜り込み、下から上へと刃を滑らせた。


鋭い切断感が手に残る。


「ぐあああっ!?」


胸元から鎖骨にかけて走った一閃により、ザイラスの巨体がくの字に折れ曲がり、たまらず後方へと大きく跳ね飛んだ。

石壁に背中から激突し、黒い血を激しく吐き出す。


着地した俺の足取りにも、もはや余裕はない。

膝が微かに笑い、握り続けた掌の皮が破れて血が滲んでいた。

だが、確信は揺るぎない形となって胸の内にあった。


奴の動きは、もう完全に掌握している。



着地したザイラスは、壁に寄りかかりながら肩で息をしていた。

胸元から流れる黒い血が、足元に小さな水たまりを作っていく。


「貴様……なぜだ……なぜ我が速度を……」


掠れた声には、先ほどまでの傲慢さは微塵も残っていなかった。

信じがたいものを見るように目を見開き、赤く光る眼球が激しく揺れている。


魔法という絶対的な力を失った世界で、ただの人間が、己の筋肉と鍛錬だけで自分を追い詰めているという現実。

それが、大魔物の誇りを根本から叩き折っていた。


「……魔法が消えて、お前たちは弱くなったんじゃない」


俺は静かに告げた。

呼吸を深く整え、肺に溜まった熱を吐き出す。


「元々、それだけの力しかなかったんだ。身体強化や魔力による誤魔化しが剥がれ落ちて、ようやく互いの本当の実力が見えただけの話だ」


「黙れ……黙れぇッ!」


ザイラスの筋繊維が赤黒く膨張し、裂けた皮膚から血飛沫が噴き上がった。

残る命のすべてを推進力に変える、捨て身の突撃体制だ。


「我は魔族の将! 貴様のような無才のゴミに、討ち取られるはずなどないのだぁッ!」


奴が深く腰を落とす。

足元の石壁が、押し出される圧力に耐えかねて蜘蛛の巣状に砕け散っていく。

これが最後だ。

小細工も、回避も、駆け引きもない。

残されたすべての力を一点に凝縮し、己の全存在をぶつけてくる最後の一撃。


対する俺は、鉄剣を静かに構え直した。


刃こぼれだらけの古い剣。

魔力伝導率ゼロの、魔法使いから見れば無価値な鉄の棒。

だが、魔法が完全に消え去ったこの世界において、どんな魔導兵装よりも頑丈で、どんな宝剣よりも頼りになる、俺の相棒だ。


切っ先を敵の喉元へと真っ直ぐに向け、正眼の構えをとる。

右足を引き、左足に体重を乗せ、全身の無駄な力を抜く。


周囲の空気が、凍りついたように静まり返った。


頭上の換気口から差し込む一筋の陽光が、砕け散った石粉を照らし、二人の間に漂っている。

水路を流れる水の音すら、完全に消え去っていた。


ザイラスの足が、壁を蹴り抜いた。


空間が歪むほどの初速。

赤黒い光の奔流となり、大魔物の全霊を懸けた凶爪が、俺の眉間へと真っ直ぐに突き進む。


俺は静かに息を吸い込み、ただ一歩、前へと踏み出した。

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