↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
23/30

第23話

冷え切った鉄格子の隙間から漏れ出る熱気に、私は喉を鳴らした。


道場の裏手、雑草に覆われた古い換気口の真上に腹ばいになり、地下水路の底を見下ろしている。隣では、泥にまみれたルークが身を乗り出し、拳を白くなるほど握りしめていた。


「……アレン先生」


少年の掠れた囁きが耳に届く。だが、私に応じる余裕はなかった。ただひたすらに、視界の先で繰り広げられる光景から目を離すことができなかった。


地下水路の湿った空気が、信じがたい熱量で揺らめいている。立ちこめる白煙の向こう、砕け散った漆黒の外殻が石畳の上に無数に散乱していた。かつて王国の魔導士たちが束になって放った極大魔法ですら、傷一つつけられなかったとされる大魔物ザイラスの重装甲。それが今、ただの一振りの鉄剣によって粉砕されていた。


「すごい……本当に、砕いちまった……」


ルークが震える声で感嘆を漏らす。


私の胸中を占めていたのは、驚愕などという生ぬるい感情ではなかった。それは、魂を根底から揺さぶられるような戦慄であり、同時に胸を締め付けるほどの羞恥だった。


かつて、私は彼を何と呼んでいただろうか。

魔力を持たぬ落ちこぼれ。時代遅れの鉄屑を振り回す無駄飯食い。魔法学園の片隅で泥にまみれて木剣を振る彼を、私は上官であるガストン殿の後ろから、冷ややかな視線で見下ろしていた。魔法こそが世界の理であり、身体を鍛えることなど魔力を持たぬ者の惨めな悪あがきに過ぎないと、心の底から信じ切っていたのだ。


だが、どうだ。


魔力が霧散した今、豪奢な鎧を着た魔法騎士たちも、そして私自身も、拠って立つ術式を失って無様に地に伏すしかなかった。


その暗闇の中で、ただ一人、世界を切り開いている男がいる。


地下の広間に立つアレンの足元には、一片の魔法陣も、魔力の残滓すら存在しない。ただ両足で硬い大地を踏みしめ、背筋を伸ばし、擦り切れた柄を両手で保持している。その立ち姿には、いかなる虚飾もなかった。


無駄を削ぎ落とした重心の移動。刃筋を一点に通すためだけに練り上げられた肩の脱力。呼吸の一つひとつが極限まで統制され、周囲の空気を澄み渡らせていく。魔力光の派手な輝きなど何一つない。それなのに、彼の放つ一挙手一投足は、かつて宮廷で見たどの高位魔導の儀式よりも圧倒的で、息を呑むほどに美しかった。


あれが、彼が積み重ねてきた年月そのものなのだ。

誰に賞賛されることもなく、嘲笑と冷遇の中で、ただ来るべき日のために研ぎ澄まし続けた本物の武。


(私は……私たちは、何を見ていたのだ)


込み上げてくるのは、己の浅薄さに対する深い後悔だった。権威にすがり、形骸化した魔法の万能性に溺れ、目の前にある本質から目を背けていた。胃の奥を締め付けるような苦痛を感じながら、私は換気口の格子を強く握りしめた。冷たい鉄の感触が、掌に食い込む。


嫉妬など抱く余地すらなかった。未練すら湧かない。ただ、あの刃が、あの孤高の剣士が、この絶望的な暗闇を切り裂いてくれることを、私は生まれて初めて、誰よりも強く祈っていた。


「頼む……勝ってくれ、アレン殿……」


声に出さず、心の中で必死に乞う。


その祈りを遮るように、地下から凄まじい地響きが轟いた。


壁に背を打ち付けていたザイラスが、赤黒い蒸気を全身から吹き上げながら、身を起こしたのだ。胸元の装甲は完全に砕かれ、紫色の体液が濁流のように滴り落ちている。しかし、その双眸の奥で爛々と燃え盛る光は、いまだ潰えていなかった。


「……許さぬ……許さぬぞ、虫ケラが……!」


大魔物の将軍の口から漏れ出たのは、狂気と憎悪に染まった重低音だった。


ザイラスは自らの太い腕を振り上げると、鋭利な爪を自らの肉体へと突き立てた。残存していた肩や腕、大腿部の分厚い外殻に爪を引っかけ、力任せに引き裂いていく。肉が引きちぎれ、骨が軋むおぞましい破砕音が、換気口を通じて頭上まで響いてきた。


「な、何をしてやがるんだ、あいつ……自ら装甲を剥いでるのか!?」


ルークが息を呑み、身を引く。


「装甲を捨てたのか……」


私の口からも、呆然とした呟きが漏れた。


ザイラスの狙いは明白だった。アレンの尋常ならざる剣技の前には、自慢の硬質化装甲すらただの標的に過ぎない。ならば、重い鎧など初めから不要――そう判断したのだ。


剥ぎ取られた外殻が、次々と石畳の上に叩き落とされ、鈍い金属音を立てる。

露出したのは、血管が異様に浮き出た剥き出しの筋肉組織だった。赤黒い筋繊維が一本一本、生き物のように蠢き、過剰な生命力を漲らせて膨張していく。肥大化していた巨体は一回り引き締まり、まるで極限まで研ぎ澄まされた凶獣のような流線型へと変貌を遂げていた。


防御を完全に放棄し、ただ相手を屠るためだけの速度と殺意に特化した異形の姿。


その全身から放たれる濃密な圧迫感は、先ほどまでとは比較にならないほど鋭利だった。地下水路を満たす空気そのものが、触れれば切れる刃物のように張り詰める。


「我をここまで追い詰めたこと、それだけは褒めてやろう」


ザイラスの低い声が、静まり返った地下空間に反響する。


「だが、終わりだ。貴様のその鈍間な鉄切れが届く前に、その首を肉片に変えてくれる」


大魔物がわずかに腰を落とし、地を踏みしめる。その動作だけで、足元の石畳が蜘蛛の巣状に砕け散った。


対するアレンは、身じろぎ一つしなかった。

荒い呼吸を整え、額を伝う汗を拭うこともなく、ただ静かに切っ先を下段から中段へと戻す。刃こぼれの目立つ古い鉄剣が、淡い光を吸い込んで静謐に佇んでいた。敵がどれほど姿を変えようと、その眼差しに揺らぎはない。ただ真っ直ぐに、敵の重心と間合いを見定めている。


「……来るぞ」


ルークが短く息を呑んだ。


その瞬間、ザイラスの姿が掻き消えた。


踏み込みの予兆すら曖昧なまま、空気が破裂するような轟音だけが遅れて響く。視界から完全に消え去った大魔物の気配は、アレンの正面ではなく、石柱の影を縫い、真横の死角へと瞬時に回り込んでいた。


人の動体視力を完全に置き去りにする超神速。


換気口から見下ろす私の目ですら、残像すら捉えきれなかった。


「アレン殿――ッ!」


私の喉から悲痛な叫びが迸るのと、漆黒の凶刃が死角からアレンの頸動脈へと迫るのは、まったくの同時だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。