第22話
地下水路の重苦しい空気の中、火花が散った余韻がじりじりと肌を焼いていた。
ザイラスの巨躯から放たれる殺気は、もはや理性をかなぐり捨てた獣そのものの凶暴さを帯びている。奴の胸部装甲に刻まれた細い亀裂――トビーが鍛え上げた鉄剣が穿ち、重ね打ちによって広げたその傷口から、黒ずんだ魔獣の血がわずかに滲み出ていた。
「下等生物が……調子に乗るなよ」
低く濁った唸り声とともに、鋼をも砕く太い鉤爪が空気を引き裂いて迫る。
俺は息を詰め、半歩だけ身体を横へ辷らせる。
爪先が鼻先をわずか数ミリの差で掠め、巻き起こった風圧が前髪を激しく揺らした。返す刀で奴の手首を狙うが、ザイラスは即座にもう片方の腕を振り下ろしてくる。
硬質な打撃音が連続して地下洞に鳴り響いた。
受けて、流し、隙を突いては切り返す。
一撃でも直撃すれば骨ごと粉砕される間合いの中で、俺の身体は無駄のない軌道を描き続ける。研ぎ澄まされた視界には、奴の筋肉の微小な収縮、視線の動き、重心の移動が手に取るように映っていた。
だが、刃先が装甲の亀裂を再び捉えたその瞬間、視界の隅が一瞬だけ歪んだ。
飛び散る火花と、濁った血の臭い。
それが引き金となって、過去の光景が唐突に網膜の裏へと焼き付く。
――あれは、前世の記憶だった。
空が赤黒い炎で染まり、王都の堅牢な城壁が呆気なく崩落していったあの滅びの日。魔法至上主義を掲げ、自らの血統と魔力を誇っていた騎士たちが、次々と悲鳴を上げて地に伏していた。
「なぜだ……! 魔法障壁が展開できない……!?」
「身体強化が解けた!? 馬鹿な、魔力が――」
彼らは杖を握りしめたまま、あるいは魔力を通すための豪奢な宝剣を構えたまま、押し寄せる魔物の群れに無残に蹂躙されていった。唱え慣れた呪文は空気を震わせることもなく霧散し、信じ切っていた神秘の力は、消滅の瞬間に何の盾にもならなかった。
目の前で引き裂かれていく仲間たち。
炎の中で崩れ落ちる王宮。
そして、何もできずにただ圧倒的な暴力の前に屈した、かつての自分。
魔法という絶対的な前提を奪われた人類は、牙をもがれた赤子同然だった。拠って立つべき足場を失い、絶望の中で命を散らしていく人々の叫びが、耳の奥に蘇りそうになる。
一瞬の冷気が、背筋を這い上がった。
しかし――俺の足は、止まらなかった。
心臓が強く脈打ち、熱い血液が全身を巡る。
踏みしめた地下の石畳は、確かにこの足裏を支えている。手の中に握りしめた鉄剣の柄は、手のひらに馴染んだタコと無骨な皮膚を通じて、確かな質量と手応えを返してきていた。
違う。
あの時とは、決定的に違う。
俺は一度として、消え去るような魔法になど頼ってこなかった。
周囲からどれほど「魔力ゼロの落ちこぼれ」と嘲笑されようとも、馬鹿にされようとも、ただひたすらに自分の肉体を苛み、骨を軋ませ、実直にこの剣だけを振るい続けてきたのだ。
何千回、何万回、何百万回と繰り返した素振り。
手のひらが裂け、血が滲むたびに巻き直した布の感触。
重力に従って身体を動かし、筋肉の連動を極限まで研ぎ澄まし、ただ刃を振るうことだけに費やしてきた年月。
そのすべてが、今、この瞬間にも俺の骨肉となって息づいている。
魔法が消えたから滅びるのではない。
自分の足で立ち、自分の手で武器を握ることを放棄したから、人は滅びに瀕したのだ。
「貴様ぁッ! なぜ避けられる! なぜ我が一撃を受けて立っていられるッ!」
苛立ちを爆発させたザイラスが、丸太のような両腕を頭上から叩きつけてくる。
だが、俺の瞳に映るその動きは、あまりにも明瞭だった。
魔法による強引な加速ではない。魔力で誤魔化されたフェイントでもない。それは純粋な肉体の躍動であり、物理の法則に従った軌道だ。ならば、見切れないはずがない。
俺は重心を沈め、わずかに身を引いて落下の力を受け流した。
直後、轟音と共に足元の石畳が砕け散り、土煙が舞い上がる。その爆風を切り裂きながら、俺は一歩前へと踏み込んだ。
魂の底から、確信が湧き上がっていた。
俺が鍛え上げてきたこの剣は、過去の遺物などではない。
魔法が消え去り、暗闇に閉ざされようとしているこの世界において、泥臭く足掻き、生き延びるための――人類の新たな希望そのものだ。
「終わりだ、ザイラス」
俺は短く息を吐き出した。
肺の中の熱をすべて吐き出し、代わりに澄み切った冷気を吸い込む。
身体の芯が静まり返り、周囲の時間の流れが緩やかに引き延ばされていくような錯覚を覚えた。
迷いは完全に消え去っていた。
前世のトラウマも、滅びの記憶も、すべてはこの一振りの刃を研ぎ澄ますための砥石に過ぎなかったのだと、身体中の全細胞が理解していた。
構えた鉄剣が、微かな唸りを上げる。
腕の力だけで振るのではない。足裏から伝わる大地の反発力を膝で受け、腰の回転へと変換し、背中から肩、肘、手首へと一切の滞りなく伝播させる。
ただの一撃。
だがそこには、俺が積み重ねてきた五年間のすべてが凝縮されていた。
「人間風情がぁぁぁッ!」
ザイラスが咆哮し、胸部の装甲を黒く硬質化させる。刃を弾き返そうとする咄嗟の防御。
だが、その装甲の中央には、すでに深々と亀裂が刻まれている。
俺の振るった刃は、寸分の狂いもなく、その亀裂の最深部へと吸い込まれた。
衝突の瞬間、地下水路全体を揺るがすような金属音が炸裂した。
硬度と硬度の激突。
しかし、衝撃は弾けなかった。俺の刃はザイラスの装甲を滑ることなく、一点に集中した破壊力をその亀裂の奥底へと真っ直ぐに注ぎ込んでいく。
トビーの打った鉄剣が、軋みすら立てずに敵の装甲を押し広げる。
ミシッ、と不吉な亀裂音が響いた。
次の瞬間――バキィンッ! と甲高い破砕音が空間を満たした。
ザイラスの胸を覆っていた漆黒の硬質装甲が、耐えきれずに放射状へと砕け散る。無数に弾け飛んだ装甲の破片が、薄暗い地下の明かりを反射しながら、新時代の幕開けを告げる火花のように宙を舞った。
「ぐ、あぁぁぁッ!?」
初めてザイラスの口から、本物の苦痛に歪んだ絶叫が漏れた。
胸元を大きく切り裂かれ、濁った体液を撒き散らしながら、巨体が大きく後方へとよろめく。
俺は残心を保ちながら、静かに切っ先を奴へと向け直した。
呼吸は荒い。全身の筋肉は悲鳴を上げている。だが、手応えは確かにあった。魔法を宿さぬただの鉄剣が、世界を滅ぼしかけた大魔物の装甲を完全に打ち砕いたのだ。
だが、大魔物の将軍はまだ倒れてはいなかった。
よろめいたザイラスは壁に背を打ち付けると、砕かれた自らの胸元を見下ろし、信じられないものを見るように目を見開いた。その双眸に宿る光が、驚愕から屈辱へ、そして底知れぬ狂気へと塗り潰されていく。
「我が装甲を……この、高貴なる我が肉体を……虫ケラごときが……!」
ザイラスの身体から、異様な熱気と赤黒い蒸気が噴き出した。
奴は自らの太い爪を、砕け残った自らの外殻装甲へと突き立てる。
ギリギリと肉を削るような凄惨な音を立てながら、ザイラスは自らの意思で、身体を覆う重装甲を強引に引き剥がし始めた。
「許さぬ……決して許さぬぞ、人間……!」
剥ぎ取られた装甲の隙間から、これまでとは比較にならないほど凶悪に脈打つ、剥き出しの赤黒い筋肉組織が蠢き始めていた。




