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第16話

「……終わりにするぞ、大魔物の将軍」


俺は頬を伝う血を手の甲で無造作に拭い、古い鉄剣を正眼に構え直した。


手には無数の豆やタコが重なり、皮膚は硬く変質している。実戦を想定した軽装の修練着は、すでに汗と血で重くなっているが、不思議と身体は軽かった。


頭上の換気口から差し込む一筋の光が、暗く淀んだ地下空間を真っ直ぐに切り裂く。泥にまみれながら必死に瓦礫を退かしてくれた弟子たちの思いが、確かな風となって俺の背中を力強く押すのを感じる。


その光の先に立つ漆黒の巨躯は、もはや理性を失った獣のように荒い息を吐き出している。


「貴様ァ……! 矮小な人間風情が、我をここまでコケにするとはな!」


大魔物の将軍は、全身の筋肉を異様に膨張させている。自らの生命力を強制的に燃焼させ、限界を超えた力を引き出そうとする証拠だ。奴の足元から、石畳が熱で黒く焦げていく。魔力ではなく、純粋な生命の炎。それが尽きる時、奴自身もまた滅びる。まさに捨て身の覚悟だ。


漆黒の装甲の隙間から噴き出す異常な熱気が、周囲の空気を陽炎のように歪ませる。


俺は冷静に相手の重心を観察し、短く息を吐いた。


「力任せに命を削ったところで、当たらなければ意味がない」


「ほざけ! 魔法という玩具を失った貴様らなど、ただの肉の塊に過ぎん!」


奴の咆哮が地下空間に反響し、ビリビリと鼓膜を震わせる。


「お前たち魔物も同じだ。魔法という環境に依存し、強靭な肉体にあぐらをかいてきた。それがなくなった途端、ただの力任せの獣に成り下がる」


「我を獣と呼ぶか、下等生物が!」


激昂した大魔物の将軍は周囲を見渡し、地下空間の天井を支える巨大な石柱に目を向けた。王都の地下水路を何百年も支え続けてきた、太さ数メートルはある古代の石積みだ。王都の地下水路は、迷宮のように入り組んでいる。その要所を支えるこの石柱が失われれば、連鎖的な崩落が起きる危険がある。


奴はそこへ歩み寄り、太い両腕を回す。


「消え失せろ、虫ケラが!」


凄まじい膂力が石柱を軋ませる。


轟音と共に、石柱が根元からへし折られた。その瞬間、地下空間全体が悲鳴を上げたように揺れる。


支えを失った天井から、大量の土砂と瓦礫が降り注ぐ。ルークたちが確保してくれた換気口からの光が、舞い上がる土埃によって遮られそうになる。地下全体が激しく揺れ、今にも崩落しそうな危機に瀕する。


上が崩れれば、地上で防衛にあたるルークやヴィクターたちも巻き込まれる。ここで確実に仕留めなければならない。


奴は引き抜いた巨大な石柱を、まるで小枝のように軽々と持ち上げた。


圧倒的な物理的質量。それが空間全体を制圧し、俺の逃げ場を奪う。


「潰れろォ!」


石柱が横薙ぎに振るわれる。


凄まじい風圧が巻き起こり、周囲の瓦礫が弾け飛ぶ。俺は姿勢を極限まで低くし、石柱の下を潜り抜ける。頭頂部をかすめる巨大な質量の塊が、空気を引き裂く甲高い音を立てる。髪の毛が数本、風圧だけで千切れて舞い散る。


壁に激突した石柱が、地下空間の石積みを粉砕する。破片が散弾のように降り注ぐ中、俺は古い鉄剣を盾にして致命傷を避ける。カン、カンと硬質な音が響き、腕に痺れが走る。


「ちょこまかと逃げ回るな!」


奴は石柱を振り下ろし、叩きつけ、薙ぎ払う。


縦の一撃。俺は半歩だけ右にずれ、風圧を肩口で受け流す。地面が大きく陥没し、土煙が視界を奪う。


横の薙ぎ払い。再び姿勢を沈め、足元の瓦礫を蹴って後方へ跳躍する。


突き。石柱の先端が迫る。俺は古い鉄剣の腹を添え、軌道をわずかに逸らす。


そのたびに地形が変わり、足場が崩れていく。風圧だけで皮膚が裂けそうになるほどの暴力的な連撃。


前世の記憶が脳裏をよぎる。かつて、この圧倒的な暴力の前に、魔法騎士たちは為す術もなく蹂躙された。身体強化魔法を失った彼らは、ただ逃げ惑うことしかできず、次々と命を落としていった。前世で王宮の城壁ごと騎士たちが粉砕された光景が、鮮明に蘇る。誰もが絶望し、死を受け入れた。


だが、今の俺には見える。力の流れが。質量の暴力が持つ、決定的な隙が。


五年間、周囲から嘲笑されながらも、血の滲むような素振りを繰り返してきた肉体がある。


俺は逃げるのをやめ、崩れかけの石畳の上で足を止めた。


「諦めたか、人間!」


大魔物の将軍は哄笑と共に踏み込み、天井の岩盤を削りながら石柱を上段に構えた。


最大の一撃。これをまともに受ければ、肉片すら残らないだろう。


だが、俺の感覚は極限まで研ぎ澄まされている。


視覚、聴覚、触覚。すべての感覚が鋭敏になり、脳内の処理速度が異常なまでに加速する。アドレナリンが全身を駆け巡り、痛覚すらも置き去りにする。


心臓の鼓動が遅くなり、世界がゆっくりと動いて見える。


奴の膨張した筋肉の繊維が収縮し、力が伝播していく微細な動き。右肩の三角筋が膨張し、広背筋が連動する。足腰の踏み込みが地面を砕き、その反発力が腰から腕へと伝わっていく。


石柱の軌道は最短距離ではない。力任せゆえの、わずかなブレが生じている。その数ミリの誤差が、俺にとっては致命的な隙となる。


石柱の表面の凹凸。降り注ぐ瓦礫の一つ一つの軌道。空気の摩擦音すら、明確な旋律として聞こえる。


すべてが鮮明に捉えられる。


俺の手にあるのは、魔力伝導率ゼロの古い鉄剣だ。魔法消失の時代において、決して劣化しない不壊の刃。魔力を持たないこの剣は、ただの鉄の塊だ。だが、それゆえに純粋な物理法則のみに従う。魔法消失による世界の歪みに、一切干渉されない。


奴の最大の一撃を打ち破るための、たった一つの冴えたやり方。それは、相手の力が最大になる瞬間を見極め、その力を利用して急所を断つ神速のカウンターだ。


相手の力が最大になる瞬間。それは同時に、相手が最も無防備になる瞬間でもある。石柱が振り下ろされる軌道の内側。そこに、俺が踏み込むべき『死線』がある。


互いの気が極限まで高まり、地下空間の空気が張り詰める。


俺は古い鉄剣を静かに構え、足の筋肉をバネのように縮める。


「死ねェェェッ!」


奴の足元の石畳が爆ぜ、巨大な影が俺を覆い尽くす。


俺は呼気を細く長く吐き出す。


両者の最大の一撃が激突する直前。


時間が止まったかのような、絶対的な静寂が訪れた。


音が消える。色褪せた世界の中で、ただ二つの意志だけが激突に向かう。俺の呼吸音すら、遠い世界のことのように感じられる。心臓の鼓動が一回、二回とゆっくりと時を刻む。


舞い落ちる土埃が空中で静止し、奴の咆哮すら聞こえなくなる。振り下ろされる石柱の先端が、俺の頭上に迫る。


この一撃の交錯の果てに立っているのは、果たして誰か。


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