第15話
大魔物の全身から噴き出す赤黒い蒸気は、地下空間の空気を一瞬にして灼熱へと変えた。
呼吸をするだけで肺が焼けるような熱気。足元の石畳は、奴が発する異常なプレッシャーに耐えきれず、ピキピキと音を立ててひび割れていく。
「オオオオオオオオッ!」
言語を絶する咆哮と共に、大魔物が踏み込んできた。
先程までの、巨体を活かしたヒットアンドアウェイ戦法ではない。命を削り、理性を代償にして限界を超えた力を引き出した獣の突進だ。内側からの異常な圧力に耐えきれず、漆黒の重装甲がひしゃげ、赤黒く膨張した筋肉が露出する。
俺は刃こぼれした古い鉄剣を斜めに構え、迫り来る丸太のような腕を受け流そうとした。
だが、剣身に触れた瞬間に伝わってきた重さは、これまでの比ではない。
「くっ……!」
衝撃を殺しきれず、俺の身体は後方へと大きく弾き飛ばされた。
空中で姿勢を立て直し、砕けた石柱を蹴って着地する。休む間もなく、奴の追撃が迫る。
異常膨張した筋肉から繰り出される連撃は、もはや武術の体を成さない。ただ純粋な暴力の嵐。
俺は回避に徹した。右へ、左へ。五年間培ってきた歩法を極限まで引き出し、致命傷となる一撃だけを最小限の動きで躱していく。五年間、毎日欠かさず続ける素振りの成果が、無尽蔵のスタミナと完璧な呼吸法をもたらし、この極限状態でも俺の足を動かし続ける。
しかし、奴の拳は空気を圧縮し、風圧そのものを凶器へと変える。
空気を切り裂く鋭い音が耳元で鳴った直後、俺の頬に熱い痛みが走った。
浅からぬ傷。皮膚が裂け、生温かい血が滴り落ちて顎を伝う。
痛みに顔をしかめるが、俺の心は氷のように冷え切る。
奴の命の炎は、長くは持たない。自らを燃やし尽くす禁断の術だ。だが、その炎が消える前に俺が押し潰されれば、すべては終わる。
どう凌ぐか。どう反撃の糸口を見つけるか。俺は荒れ狂う暴力の嵐の中で、ただひたすらに活路を探し続ける。
◆ーーーー◆
「ルーク君、右だ!」
「分かってる!」
ヴィクターさんの鋭い声に反応し、俺は鋭く踏み込むと同時に剣を振り抜いた。刃が魔物の首の関節を正確に捉え、黒い血が噴き出す。
周囲を見渡すと、路地を埋め尽くす魔物の群れはあらかた片付く。
魔法が不発になり、身体強化すら失った騎士たちは、地面にへたり込んで荒い息を吐く。かつて魔法至上主義の頂点に立つ彼らの面影はない。だが、剣を杖代わりにして立ち上がろうとするその目には、まだ絶望に抗う意志が残る。
「ヴィクターさん、こっちはもう持ちこたえられます。俺は裏山に行きます」
剣の血糊を振り払いながら言うと、ヴィクターさんは神経質そうな顔をしかめた。
「裏山? まさか、あの換気口か」
「はい。先生が地下で戦う。万が一の時のために、退路と支援ルートを確保しておかないと」
地下からは、時折地響きのような激しい振動が伝わる。先生がどれほどの死闘を繰り広げるのか、想像するだけで胃の奥が冷たくなる。
ヴィクターさんは少しの間沈黙し、やがて静かに頷いた。
「私も行こう。ここの指揮は残存の部隊長に任せられる」
「でも、あんたは……」
「私とて、あの男に背中を預けられた身だ。ここでただ待つわけにはいかない」
規律を重んじ、常に軍服を整えるヴィクターさんの姿は、今は泥と血にまみれる。かつては魔法を使えない先生を軽蔑する彼が、今はその実力を認め、自らも泥臭く戦うことを選ぶ。その横顔には、かつてないほどの強い覚悟が宿る。
俺たちは道場の裏山へと駆け出した。
そこにある古びた換気口は、先生が五年間毎日素振りを続ける場所であり、王都の地下水路へと繋がる重要な経路だ。
だが、到着した俺たちの目に飛び込んできたのは、無残に崩落した石壁だった。
先程からの激しい振動で周囲の地盤が緩み、換気口の入り口が大量の瓦礫で塞がりかける。
「くそっ……これじゃ先生が戻ってこれない!」
俺は剣を放り出し、素手で瓦礫に飛びついた。
泥にまみれ、爪が割れるのも構わず、必死に石を退かしていく。俺には魔法の才能がない。ずっとそれがコンプレックスだった。でも、先生はそんな俺を拾い、剣の道を教え導く。
隣では、ヴィクターさんも無言で大きな岩を抱え上げ、脇へと放り投げる。指先から血が滲み、腕の筋肉が悲鳴を上げるはずなのに、彼の動きは止まらない。
「先生は……絶対に勝つ。俺はそう信じる」
重い石を動かしながら、俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
「ああ。彼なら必ずやり遂げるはずだ。だからこそ、我々は彼が帰る道を作らねばならない」
ヴィクターさんの言葉に、俺は強く頷いた。
魔法が消え去ったこの世界で、先生の剣だけが人類の希望だ。
俺たちにできるのは、その希望の光を絶やさないよう、泥臭く足掻くことだけだった。
◆ーーーー◆
地下空間の崩壊は、もはや時間の問題だった。
大魔物の猛攻は苛烈さを増し、天井からは絶え間なく石の雨が降り注ぐ。
「オオオオオオオオッ!」
咆哮の衝撃波が残存する石柱をへし折る。赤黒い蒸気が視界を奪う中、大魔物が再び距離を詰めてきた。
俺は息を整え、迫り来る拳を紙一重で躱した。
理性を失うことで、奴の攻撃からはフェイントや駆け引きが消え失せる。ただの力任せの振り下ろしだ。軌道が読みやすい分、躱すこと自体は難しくない。だが、一発でも掠れば致命傷になるという極限の緊張感が、精神を激しく消耗させる。
その瞬間、前世の記憶が不意に脳裏をよぎった。
王都が炎に包まれ、魔物の大群に蹂躙される光景。
自分の剣が届かず、セリアや仲間たちが次々と血の海に沈むあの絶望。
どれだけ足掻いても、魔法という絶対的な力の前では無力だった過去。
目の前で大切な人々が殺される状況。それが、俺の最も恐れるものだ。
だが、今は違う。
手には魔力に干渉しない特殊な鉱石で打たれた剣がある。
そして何より、五年間、周囲から嘲笑されながらも振り続ける素振りの成果が、この肉体に深く刻み込まれる。
前世のトラウマを乗り越えた今の俺には、負ける理由がない。
奴が両腕を大きく振り上げ、俺を粉砕すべく飛びかかってきた。
その時だった。
頭上から、微かな風が吹き込んだ。
見上げると、崩れかける天井の換気口から、一筋の光が差し込む。
塞がるはずの瓦礫が取り除かれ、血と埃にまみれた地下空間に、地上の新鮮な空気が流れ込む。
(ルーク……ヴィクター……)
彼らが、俺の退路を確保する。
泥にまみれながら必死に石を退かす弟子たちの姿が、目に浮かぶようだった。
差し込む光が、暗く淀んだ地下空間を切り裂き、大魔物の巨躯をほんの一瞬だけ照らし出す。
その光は、俺の背中を力強く押し、次なる一撃への活力を与える。
「……終わりにするぞ、大魔物の将軍」
俺は頬の血を無造作に拭い、剣を正眼に構え直した。
師を信じる弟子たちの思いと、俺の不屈の闘志が交差する。
極限状態の両者の激突は、果たしてどのような結末を迎えるのか。




