第12話
極限の死地で、俺は最後の一太刀を見極めるべく、ザイラスの狂気と正面から対峙した。
ザイラスの全身から噴き出すどす黒い殺気が、地下空間の空気を重く歪ませていく。
崩落した天井から降り注ぐ巨大な瓦礫が、次々と濁流に叩きつけられ、白い水柱を何本も立ち上げていた。
「死ねぇええええええええええっ!」
鼓膜を突き破るような咆哮と共に、ザイラスの巨躯が視界からブレた。
濁流を蹴り立てる凄まじい脚力。水面が爆発したかのように弾け飛び、漆黒の装甲が砲弾と化して迫り来る。
俺は姿勢を極限まで低くし、剣を斜めに構えた。
直後、視界を覆い尽くすほどの巨大な爪が、俺の頭部を刈り取る軌道で振り抜かれる。
空気を引き裂く鋭い風切り音。
俺は水流の勢いを足裏で殺しつつ、ギリギリのタイミングで後方へ跳躍した。
爪の先端が鼻先を掠め、背後の分厚い岩壁に激突する。
轟音と共に岩盤が豆腐のようにえぐり取られ、無数の破片が散弾となって降り注いだ。
「逃がさんぞ、虫ケラァ!」
ザイラスは自身の爪が欠け、鱗が剥がれ落ちることも一切意に介していなかった。
狂乱状態に陥った大魔物は、防御という概念を完全に捨て去っている。
自らの肉体を犠牲にしてでも、俺という目障りな存在を確実に仕留める。その執念だけが、奴の巨体を突き動かしていた。
右の爪撃、左の薙ぎ払い、そして死角から襲い来る太い尾の一撃。
息つく暇もない連続攻撃が、濁流の上で繰り広げられる。
「貴様など、我が爪の錆にしてくれるわ!」
振り下ろされる爪は、単なる物理攻撃ではない。大魔物特有の異常な筋力から生み出される、回避不能の面制圧だ。
俺は剣の角度を微調整し、爪の側面を滑らせるようにして威力を逸らす。
まともに受け止めれば、いかに剣が不壊であっても、俺自身の肉体が衝撃に耐えきれず粉砕されてしまう。
だからこそ、極限まで研ぎ澄ませた剣術の理合が必要だった。
相手の力を利用し、受け流し、自身の体勢を崩さない。
前世で数え切れないほどの死線を潜り抜け、血反吐を吐きながら身につけた技術。
それが今、この絶望的な状況下で俺の命を繋ぎ止めている。
完全に躱しきれない一撃が、幾度となく俺の剣に直撃する。
ガァンッ!
甲高い金属音が地下空間に響き渡る。
剣を通して伝わってくる衝撃は凄まじく、両腕の筋肉が悲鳴を上げ、手首の関節が軋んだ。
足元の岩盤が砕け、俺の身体は水しぶきと共に後方へ大きく吹き飛ばされる。
「ふっ……!」
空中で体勢を立て直し、着水と同時に再び構えを取る。
息が上がり、全身の疲労はピークに達しつつあった。
だが、俺の手の中にある古い鉄剣は、微かな軋みすら上げていない。
大魔物の捨て身の特攻を何度受け止めようとも、刃こぼれ一つ、ヒビ一つ入っていなかった。
かつて魔法騎士たちから、魔力を一切通さないゴミだと嘲笑された一振り。
だが、この剣はただの鉄屑ではない。
王都の裏路地で工房を構える鍛冶屋、トビーが鍛え上げた特殊鉱石の結晶だ。
『いいか、この鉱石は魔力を一切通さねえ。その代わり、純粋な硬度ならこの世で一番だ』
むせ返るような熱気と、鉄を打つリズミカルな槌音が記憶に蘇る。
煤にまみれた革エプロン姿のトビーは、額の汗を拭いながら誇らしげに笑っていた。
『魔法なんざに頼らなくても、極めた鉄は裏切らねえ。俺の最高傑作だ。存分に振り回してきな』
魔法至上主義のこの国で、彼の鍛冶技術は時代遅れとされ、正当な評価を受けてこなかった。
だが、彼は決して腐ることなく、純粋な鉄と炎に向き合い続けた。
彼の魂が込められた仕事が今、この極限の死地において、俺の命を繋ぐ最強の盾となっていた。
魔法消失の影響を一切受けず、どれほどの物理的衝突にも耐えうる不壊の強度。
俺はこの剣を完全に信頼し、防戦一方の展開から反撃の糸口を探り始めた。
「なぜだ! なぜ貴様のような魔力ゼロのゴミが、我が一撃を防げる!」
ザイラスの咆哮には、怒りだけでなく、理解不能な事象に対する苛立ちが混じっていた。
魔法を持たない人間は、彼らにとってただの狩りの対象でしかないはずだった。
高位魔法すら通じない自身の装甲と筋力が、ただの鉄剣一本に阻まれている現実を、奴のプライドが許容できないのだ。
「お前も、魔法に依存した連中と同じだ。純粋な力と技のぶつかり合いを、何も分かっていない」
俺が冷徹に言い放つと、ザイラスの全身の筋肉が異常なまでに膨張した。
周囲の濁流が、奴の放つ圧倒的な圧力によって外側へと押し流されていく。
奴は勝負に出たのだ。
残されたすべての力を両脚に込め、俺を頭から丸呑みにしようと突進の構えを取る。
「これで終わりだ、魔力ゼロのゴミめ!」
濁流が真っ二つに割れ、漆黒の巨躯が一直線に迫り来る。
大きく開かれた顎。そこには、岩盤すら容易く噛み砕く無数の鋭い牙が並んでいる。
大魔物の必殺の一撃。
並の武器であれば、触れた瞬間に粉砕され、持ち主ごと肉塊に変えられるだろう。
だが、俺は逃げなかった。
迫り来る巨大な牙に対し、俺は呼吸を深く沈め、剣の腹を斜めに構えた。
前世で俺を助けてくれた恩人たちを、絶対に見捨てない。
その信念が、俺の足裏を水底の岩盤に深く根付かせる。
直後、ザイラスの最大の牙が、俺の剣に激突した。
ドゴォオオオオオオオオオオッ!
凄まじい衝撃波が爆発し、周囲の濁流が一瞬にして吹き飛んだ。
俺の足元の岩盤が粉々に砕け散り、水しぶきが天井の崩落跡まで高く舞い上がる。
両腕の骨が軋み、全身の血管が破裂しそうなほどの圧力が襲いかかる。
だが、剣は折れない。
トビーの打った鉄は、大魔物の最大の牙の圧力すらも正面から受け止め、微動だにしていなかった。
「なっ……!?」
ザイラスの目に、信じられないものを見たという驚愕の色が走る。
自らの最強の武器が、ちっぽけな人間の持つ古い鉄剣に阻まれたという事実。
俺は、奴の思考がその現実に追いつく前の一瞬の硬直を見逃さなかった。
剣の腹で牙の軌道を滑らせるように受け流し、そのまま反発力を利用して身体を鋭く捻る。
全身の筋肉を連動させ、極限まで練り上げた力を両腕に乗せる。
「ふっ!」
渾身の力と共に、不壊の剣を叩き込む。
狙うは、受け流されて無防備になった巨大な牙の根元。
純粋な物理戦闘の極致が、大魔物の装甲の隙間を正確に捉えた。
パァンッ!
硬質で乾いた破砕音が、地下空間に響き渡る。
ザイラスの自慢の巨大な牙が、根元から無残にへし折れ、空中を舞った。
「ガ、ア……?」
痛覚よりも先に、理解を超えた事象に対する動揺が、ザイラスの巨躯を硬直させる。
折れた牙の断面から黒い血が噴き出し、奴はよろめくように後退した。
その顔に浮かんでいたのは、これまでの傲慢さでも、狂乱の怒りでもない。
初めて見せる、明確な焦りと恐怖の色だった。
俺は濁流の上に静かに立ち、刃こぼれ一つない剣を真っ直ぐに構え直す。
「お前の武器は、もう通じない」
トビーの打った剣が最強の盾となり、俺の反撃の狼煙が上がった。
最大の武器の一つを失い、恐怖に顔を歪ませ始めた大魔物は、果たしてどう出るのか。
俺は冷徹な視線で、崩れゆくザイラスの巨躯を見据えた。




