第11話
頭上から降り注ぐ岩の雨を、俺は最小限の動きで躱し続けた。
ザイラスの巨体が暴れ回るたびに、王都の地下を支える古い石壁が悲鳴を上げる。奴は自身の肉体が傷つくことすら気に留めず、ただひたすらに周囲を破壊し尽くそうとしていた。
「死ね! 死ねぇえええええっ!」
怒号と共に、漆黒の重装甲に覆われた巨大な腕が壁面に叩きつけられる。
直後、鼓膜を破るような轟音が響き渡った。
分厚い岩盤が大きく崩落し、その裂け目から大量の地下水が噴き出したのだ。
激しい濁流が、あっという間に地下空間へ流れ込んでくる。
足首までだった水かさは瞬く間に膝下まで達し、荒れ狂う水流が俺の姿勢を崩そうと押し寄せてきた。
環境の激変。だが、俺の思考はどこまでも冷え切っている。
「愚かな人間め! その細い足で、いつまで立っていられるかな!」
ザイラスは狂気に満ちた笑い声を上げた。
奴の巨体と重装甲は、この濁流の中でも容易には揺るがない。逆に、軽装の俺にとって足場の悪化は致命的な機動力の低下を意味する。奴はそれを本能で悟ったのだろう。
水しぶきが視界を遮る中、ザイラスが動いた。
巨体からは想像もつかない速度で水底を蹴り、死角から執拗な奇襲を仕掛けてくる。
鋭い爪が空を裂き、俺の首筋を掠めた。
刃こぼれした古い鉄剣で受け流すが、水流の抵抗が腕の動きを僅かに遅らせる。
「どうした! 先ほどの勢いはどこへ行った!」
ザイラスの猛攻が続く。
奴は意図的に水面を叩き、目眩ましのように水柱を上げながら間合いを詰めてきた。
濁流という自然の猛威すら、己の武器として利用している。
だが、俺は焦らない。前世で幾度も死線を潜り抜けてきた経験が、この程度の環境変化で揺らぐはずもなかった。
◆ーーーー◆
同じ頃、地上の王都では避難誘導が佳境を迎えていた。
魔法消失の混乱に乗じて入り込んだはぐれ魔物たちが、市街地のあちこちで咆哮を上げている。
逃げ惑う市民たちの悲鳴が交錯する中、凛とした声が響いた。
「落ち着きなさい。王家の名において、あなた方の安全は保証します」
隙のないドレスを着こなした老女、モーガンだ。
彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし、パニックに陥りかけた群衆の前に立っていた。
その鋭い眼光と落ち着いた口調には、有無を言わせぬ説得力がある。
「西区画の防衛線はすでに確保されています。慌てず、指示に従って進みなさい。無用な混乱は、自らの命を縮めるだけですよ」
モーガンの理知的な言葉に、市民たちは次第に冷静さを取り戻していく。
彼女は事実を正確に分析し、今最も必要な行動を人々に促していた。王家を守るという彼女の信念が、この絶望的な状況下で強固な秩序を生み出している。
「おうおう、婆さん。相変わらず口が減らねえな」
そこへ、血塗れの長剣を肩に担いだバルドが歩み寄ってきた。
白髪交じりの髭には土埃がこびりつき、歴戦の傷跡が残る厳つい顔つきには疲労の色が見える。だが、その瞳は猛禽類のように鋭く光っていた。
「辺境伯。私兵の指揮は終わったのですか?」
「ああ。防衛線は押し上げた。魔物の数は多いが、魔法なしでも戦える連中を集めてある。簡単には抜かれねえよ」
バルドは豪快に笑い飛ばし、地下へと続く暗い穴を見下ろした。
そこからは、地鳴りのような轟音と微かな振動が絶え間なく伝わってくる。
「あいつなら、必ずやり遂げる。儂らは儂らの仕事を全うするだけだ」
「ええ、分かっています。あの男は、王家の……いえ、人類の最強の盾。ここで倒れるような柔な剣は振っていませんからね」
モーガンもまた、地下の暗闇に向けて静かに目を伏せた。
二人の間に言葉は多くない。だが、アレンの勝利を疑う者はここにはいなかった。彼らはそれぞれの戦場で、来るべき新時代のために命を懸けているのだ。
◆ーーーー◆
再び地下空間。
濁流は勢いを増し、腰の高さまで迫ろうとしていた。
ザイラスの爪が、水煙を突き破って俺の胸ぐらを狙う。
「ちょこまかと逃げ回るな! 貴様の命運もここまでだ!」
奴の言う通り、まともに踏ん張ろうとすれば水流に足を取られる。
ならば、逆らわなければいい。
俺は迫り来る爪を躱すため、あえて足元の力を抜いた。
荒れ狂う水の流れに身を任せ、体捌きの一部として自然に取り込む。
水流が俺の身体を押し流そうとする力を利用し、水面を滑るようにして後方へ跳躍した。
「なっ……!?」
ザイラスの目が驚愕に見開かれる。
俺は水中に沈む瓦礫を爪先で軽く蹴り、流れの向きに合わせて軌道を変えた。
水の抵抗を殺すのではなく、推進力へと変換する。
それは、魔法による身体強化に頼りきっていた者には決して辿り着けない、純粋な身体操作の極致だった。
「ふっ!」
呼気と共に、俺はザイラスの予測を遥かに上回る速度で肉薄した。
奴の巨体が反応するより早く、俺の剣が空を薙ぐ。
狙うのは、漆黒の重装甲が重なり合う僅かな隙間。分厚い鱗の継ぎ目だ。
刃こぼれした鉄剣が、濁流を切り裂いて吸い込まれるように突き刺さる。
硬質な鱗を滑らせ、その奥にある柔らかい肉へと深く鋭い一撃を確実に刻み込んだ。
「グギャアアアアアアアアアッ!」
ザイラスが鼓膜を裂くような絶叫を上げた。
傷口から噴き出した黒い血が、周囲の濁流をどす黒く染め上げていく。
俺は剣を引き抜き、再び水流に乗って間合いを取った。
確かな手応えが手のひらに残っている。奴の装甲は無敵ではない。この環境下でも、俺の剣は確実に致命傷を与えられる。
「貴様……貴様ぁあああああ!」
痛みに狂乱したザイラスが、両腕を大きく広げた。
奴の全身から、これまでとは比較にならないほどのどす黒い殺気が膨れ上がる。
周囲の濁流が波立ち、地下空間全体が激しく揺さぶられ始めた。
奴は残されたすべての力を振り絞り、自身の命すら投げ打つ特攻の構えを見せている。
天井の岩盤がさらに大きく崩れ落ち、巨大な瓦礫が次々と水面に叩きつけられた。
このままでは、奴の一撃を待たずして地下空間そのものが完全に崩壊する。
俺は剣を正眼に構え、荒れ狂う水面の上で静かに息を整えた。
奴の捨て身の特攻。それを凌ぎ切った先にしか、俺たちが生き延びる未来はない。
極限の死地で、俺は最後の一太刀を見極めるべく、ザイラスの狂気と正面から対峙した。




